冬がきた
岩木山も八甲田も白くなり、スキーのシーズンです。秋の収穫も終わり、漬け物の季節です。正月を迎え、昔は出稼ぎもありましたが、いまは少なくなりました。津軽の秋の味覚も終わり、海峡のマグロも獲れ始めています。市場ではタラ、ソイ等冬の魚が並んでいます。名物鱈のジャッパは500円位で売っています。十三湖の味の濃い寒の大和シジミも美味しい時期なり、ストーブ列車も本格的な季節となります。
リンゴの歌、
赤いリンゴに 口びる寄せて
だまってみている 青い空
リンゴはなんにも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ
サトウ ハチロー作詞 万城目 正作曲 並木 路子唄
津軽・津刈・都加留・豊饒な味と情熱・温泉
津軽と言えばさしあたり強烈なのは雪国、津軽三味線、津軽民謡、津軽弁それにねぶた祭りとでも言えようか。
それに太宰 治の「人間失格」等を想い出せば、すっかり嵌った気になるかも知れません。本州の袋小路と太宰が小説「津軽」で言った「津軽半島」は昔蝦夷と言われる人が棲んでいました。この北国は中央からみれば得体の知れない者が住む地方で、征服のための遠征が数回も行われています。青森県にはアイヌ語の地名と考えられている所がおおくあります。津軽の語原、十三のトサ、小泊、ベツ、ナイのつく地名等はアイヌ語と関連ある地名であると考えられています。また、津軽の人はこのエゾと渡来人の血が混じっていると考えられてもいますが、津軽弁は、別で和の上方の言葉が融合しているのが確認されています。
津軽は北、西には海、東、南は山という恵まれた自然ですが、その気候がもたらす地理的風土は独特の文化をもたらしました。
<四季に合った暮らし・桜・ねぶたで爆発>
北国青森は豪雪の町で日本海の雪が大陸の風に乗ってどっと押し寄せ八甲田の山に遮られて大量の積雪になります。しかし、冬でも気温は北海道や内陸の盛岡等と較べれば暖かく、春は三月頃から更に暖かくなり始め、4月後半に桜が咲き、5月に新緑を迎え山菜採りが忙しくなります。冬が長いので春には特別のおもいがあり、特に花見はそれを爆発させる良い機会で、八甲田や岩木山の雪解けも進む里では津軽三味線の競演、民謡唄会が催うされます。弘前公園の2600本、50種の桜が満開になれば津軽衆の心も満開になり、それが終わると田植え、りんごの花の受粉等農作業に入るので、花見はその原動力になります。この頃は青空が爽やかで津軽の一番良い季節です。
そして七夕を迎える頃、町の神社では宵宮があり、金魚掬いやヨーヨー売り、綿飴、飴せんべい、食堂等の出店で賑わいます。ねぶたの制作も始まり。囃子の練習の笛、太鼓があちこちから聞こえ、ねぶたの祭りに燃え上がっゆきます。最近また青森市内の町内会の地域ねぶたが復興してきています。やはり祭りは地元住民のものです。弘前のねぷたはまだ伝統が根強く残って町内が活躍しているし、五所川原の高さ22メートルもの立ちねぶたも好評で年々観光客も増えてきています。
しかし、ねぶたが終われば急に風は涼しくなってお盆の頃は凌ぎやすい気候になり、早生のりんごの収穫が始り、稲刈りが終わる頃にはジョナゴールド、フジ等りんごの本格的な品種の収穫期になります。十一月にもなれば漬け物を漬け早々と雪の準備にはいり、 ストーブ列車が走る頃は厚いコートにくるまっても寒く、ミゾレが冷たく降り冬の到来となります。冬は働いた身体を癒す期間で、温泉に湯治にゆくのが楽しみの一つです。また温泉とスキー場は結びついていて冬満喫できます。
<三内丸山・豊かな縄文・県史は郷土館>
青森県には旧石器から弥生時代までの遺跡が多く残っています。三方が海で山、河川、湖の地理に恵まれていました。小川原湖周辺、岩木山周辺等の石器時代の遺跡、ナウマン象や虎の遺跡のある上北、貝塚の多い二つ森、縄文の三内丸山、是川、亀ヶ岡等挙げるときりがありません。このころの人々は豊富な自然のもとで魚、獣、貝、木の実、植物を食料とし、それを調理する、食器類をつくり、衣服を造って装飾品も身につけ生活していたもので、結構楽しそうに暮らしていたようです。三内丸山遺跡は500人が暮らしていたようで、祭祀がおこなわれたと言われる六本柱の櫓、集会所に使われたとおもわれる茅葺きの大きな家、倉庫に利用されていた高床式の建物、それに竪穴住居、墓、食物の残滓捨て場等区分されていました。さらに装飾品の翡翠、編み篭、土偶、土器等から北海道、新潟、秋田とも交流があったと考えられています。遺跡のところに「縄文時遊館」があり当時を味わうことが出来ます。
弥生の跡は田舎館で田圃に足跡が発見されているし、私の里では新幹線の工事による文化財の発掘で平安の遺跡がでてきました。
江戸の時代は飢饉、災害が多く飢餓を彷徨っていた時期も多く。明治に入ってりんご産業も興りましたが、戦前までは一般庶民は苦しい生活を余儀なくさせられてきました。戦後農地解放がおあり、岩木川の改修も進み稲作が安定してきてようやく息を吹き返し、近代化が進みようやく出稼ぎも少なったものの、一次産業は縮小し他産業も伸び悩み現在は求人率も悪く、疲弊した状況になってきています。青森県郷土館では県の歴史、自然、産業等総合的に見ることが出来て便利です。
<自然を反映した文化、熱情の気質・じょっぱり精神>
この厳しい自然の中では、意志を強く、自然と闘いながら生きる必要があり、中央文化からも比較的遠かった津軽は、一見乱暴と言える言葉と熱情の気質が育ちました。
北国に生きるために「じょっぱり、かたくら」精神を逞しく、つまり一直線に自分を主張通して、自分を守り意固地に他者に接する気質が自ずとできてきたのです。また、貧乏や学校に行けないための無知を「えふりこいで」ごまかし、つまりええ格好して見せてカモフラージュしたのです。「おへだふり」ー覚えているふり、「あるふり」ー金があるふり、「ええふり」ー羽振りよく、かっこうよいふりをするーはそのためにでてきたものです。
反面、太宰治のように、相手にサービスする人の良さもその裏返しでした。「どやぐ、けやぐ」と言って仲間を大切にして、助け合って暮らすことも多かったのです。またその裏返しで他者には排外的で仲間はずれにしたり、足を引っ張ることもありました。また、地方訛りや情報、知識の不足で内向的、自虐的にもなりますがこの性向は津軽だけでなく各地域でも見られ、人間の心理にあるもので「隣の芝生」的現象でもあります。
この自然の厳しい地方に生きるため信仰は必要でした。津軽では仏教、地蔵信仰、山信仰、オシラ様信仰等を庶民は心の支えとして生きてきました。
障害を背負った人は生きるため三味線を習い、門付けをしてまわり生活をしました。津軽三味線の原点はその生活にあったのです。三味線は五所川原市の金木の仁太坊というひとが義太夫の太棹を使って演奏したのが始まりです。
現在は津軽弁に疎くなった若者も多く、人間の交流、情報の発達もあり、とくに津軽らしい気質というのはそんなに残っていません。それでも人情が厚いとか独特の粘っこさがあると評する人もいます?。本当かはこの地に来て確かめないとわかりませんね。
参考 「津軽三味線の誕生」 大條和雄著 、「青森の自然をたずねて」 青森県地学教育研究会 、「十和田湖・八甲田山」 東奥日報社
<異彩の文人>
この北国の風土にはやはり異彩を放つ文人が多い。反骨、明治の俳人子規を助けた陸羯南、探求の政治家笹森儀助、ルポで告発の鎌田慧、独特の風土からと言えば私小説の葛西善三、地方主義の福士幸次郎、高木恭造、天井桟敷の寺山修司、デカタンの太宰治、津軽の発掘長部日出雄、戦後の青春石坂洋次郎、農民作家津川武一、秋田雨雀、鳴海要吉、佐藤紅緑、今官一、版画の関野準一郎、棟方志功、絵の工藤甲人、安倍合成、葛西四雄、常田健、歌手淡谷のりこ、吉いくぞ、タレント三上寛、伊奈かっぺい等枚挙にいとまがない。津軽の様々な空気を感じさせるものを表現している。報道写真家沢田教一も忘れられない。
開館された県美術館や近代文学館、棟方志功記念館で作品等に親しむことができる。
<風の岬竜飛・北の外れ>
竜飛は津軽半島の北の外れ「袋小路」と太宰が言ったところである。ここは吉田松陰も来た北の護りの要所でもある。昭和7年建築の灯台の奥には前には哨戒の砦があったが最近なくなった。竜飛を有名にしたのは青函トンネルで、53、85kmのトンネルが昭和63年完成して連絡船も消えた。
339号の階段国道、「津軽海峡冬景色」の碑もある。津軽海峡を挟んで北海道がよく見える。また夜にはイカ釣り船の漁り火も美しい。日本海から吹き上げる雪交じりの風は津軽三味線の唸る音を思い出される。下の港付近には太宰の縁の奥谷旅館や「津軽」の碑もある。風を利用した発電用の風車が淋しく回る津軽の津軽らしい場所である。ここから小泊に廻る竜泊まりラインは静かで誰でも受け容れてくれる道で一番のお勧めである。
<義経伝説・津軽にも足跡>
兄に追われた義経の同情は今なお伝説として続いています。
義経は平泉から逃れ、八戸に来て高舘に一時住み、その後青森野内の貴船神社で祈り、善知鳥神社、油川をとおり十三湊の壇林寺で福島城の藤原秀栄と逢い三厩へ往き、北海道に渡ったと言われ、三厩には嵐を鎮めるため三日三晩祈ったと言われる岩と義経寺が遺っている。北海道にも伝説があるので、これは真実と信じる作家等多くいます。
<憂国の想い・吉田松陰>
1852年ロシヤ、アメリカ等が海に威圧の艦を漂わせているなか、脱藩をして北を目指した松陰は碇ヶ関を2月末に越えた。弘前に泊まり雪の岩木山に感動している。そして岩木川沿いに藤崎、板柳、五所川原、金木と北上する。十三潟、脇元を通り、山、算師用峠を越えて三厩へ、更に平舘、青森と見て回ったのは三月で雪があり漕いでいった。竜飛に碑もある。いまも日本は世界の中で揺れている。信念を持ってどう平和に向うのかの正念場とも言える。「東北遊日記」から
<ストーブ列車・全国の客・夏、秋も楽しめる>
全国の人がやって来る人気のストーブ列車は、津軽鉄道株式会社が昭和5年7月に五所川原ー金木の12、8kmで営業開始し11月には中里までの20、7km全線開通しました。ストーブ列車は昭和61年に運行、地吹雪ツアーとセットで今は人気の観光スポットで一日2往復します。ジーゼルの機関車で木造客車を牽引、津軽の雪原を雪煙を上げて走ります。人気の石炭ストーブは、赤くなる頃スルメが焼かれその匂いが客車一杯に漂い、ワンカップを飲む観光客が楽しそうです。ほろ酔いになったころ斜陽館のある金木の駅に着きます。今年は「銀河鉄道の夜」や渡 哲也、松坂慶子の夫婦役で「マグロ」のロケにも活躍しました。また、夏は風鈴、秋は鈴虫で旅人を癒してくれます。
<ねぶた・津軽三味線>
津軽の祭りは何と言っても「ねぶた」である。起源は七夕の「ねむりながし」という行事が正しいようだ、以前は坂上田村麻呂の凱旋の言い伝もあったが今は信じられていない。行事は8月の初旬に行われる。青森は五所川原は人形、弘前は扇の形したものが多いが、別に決められたものではない。昔は町内会で実施していたもので、弘前等ではこの習慣は残っており、青森は観光化が進んで、会社、役所等のものが殆とで制作はアスパムの広場にテント張りして行われ、毎年二十数台祭りに参加する。最近は地域の町内会のものが復活してきている。五所川原では電線のため低くなったねぶたを昔のように高いものを復活させた「立佞武多」高さ22メートル重さ16トンが人気です。「立佞武多館」では常時展示されておりいつでもみられます。
青森には330万人、五所川原には170万人が今年観光に訪れたそうです。
津軽三味線は、金木で仁太坊という障害者が生活のため三味線を弾き、義太夫の太棹の三味線を使用したのが始りで、吹雪を想わせる叩き奏法が知られています。花見、宵宮などでは競演が行われ、本来民謡の伴奏なのを独奏を生み出し高橋竹山、山田千里等の奏者が現われました。津軽民謡は「あいや節」「じょんがら節」「よされ節」がしられていますが、「じょんがら」「よされ」は地方の出来事の伝承や語りぐさに節をつけ唄としてひろまったもので、ジャズ等と根源は同じ生活や労働から生まれています。毎年大会が行われ今では若手の奏者がブームを作り出しました。アスパムや津軽三味線会館の他青森市、弘前市では三味線を聞かせてくれる飲み屋も多くあり愉しめます。
<津軽金山焼・焼き物さかん>
津軽の新名所に「津軽金山焼」が五所川原市にあります。金山は地名をとったものですが、津軽じょっぱり精神の男が立ち上げた窯で、備前と同じ焼締めが特徴です。茶の地肌に炎のあとがグラデーションを創る、自然の意志を感じる作品は飽きが来ません。壺、珈琲茶碗、皿、ビール盃、杯等多種のものが展示されています。またじ゜ぶんで焼くピザ、珈琲等愉しめる店もあります。登り窯等実際に見学できるのも特徴です。津軽は芸術が盛んなところです。昔からの下川原焼き、津軽焼き他個人で沢山の窯がありそれぞれ頑張っています。
<堪能する津軽の味・山菜・鱈・イカ・ホタテ・七子八珍>
三方を海、中央を山が占める青森、北国の味は最高です。三内丸山の遺跡からも獣、魚、貝、植物の実等豊かな食生活をしていたことが分っています。
春の山菜は雪解けとともに採れるようになります。山菜は春の大切な生活を支える食物でアイヌネギ、アサツキ、ユリの仲間、タラの芽、ウド、ミズ、コシアブラ、ゼンマイ、センの木、ふき、竹の子等、とくにミズ、タケノコは定評があります。この頃飲み屋さんでは必ずつまみにでてきます。辛口の「じょっぱり」「豊盃」「田酒」等の地酒で頂くと最高です。
また、この頃は定番のホタテの他トゲクリカニ、ヤリイカ、毛蟹、シャコエビ等も美味い季節です。
さらに川のシロウオ、アユ、イワナ等が獲れてきます。海のものはアイナメ、マイカ、アンコウ、鰺、ソイ、鯛等刺身や鍋等が美味しいものが豊富です。秋のりんご、クリ、茸や鮭そしてタラ、ナマコ、ブリ、マグロ等こたえられません。漬け物はまた冬の食生活を支える保存食でした。津軽独特の調理法もあり、漬け物もダイコンの割り漬け、高菜の葉くるみ等特別、イカめし、タケノコと鮭寿司等珍しいものも美味です。四季いつきても美味しいものを食べられる津軽です。
津軽の味
春・・・蟹田等シロウオの躍り食い、十三湖のシジミ、ミズとホヤの水物 タケノコ、肉、こんに ゃく等の炒め物、カニ
夏・・・イカ焼き サザエ、蕗と身欠きニシンの煮付け、タケノコ、ニシン、ニンジン等の煮しめ
秋・・・茸の料理、鮭の押し寿司、 キャベツの鱒つけ、タラのジャッパジル、
冬・・・タラのキク、ナマコ、膾、けの汁、あんこう鍋、各種の漬け物、茸、数の子等のナンバ漬
一年中様々な魚介類(ヒラメ、アイナメ、鯛、ヤリイカ、鮫、ツブ、ホタテ、タラ等)の刺身、焼き物 等を味わえる。七子八珍とは、これぞ青森で推奨する魚介類の絶品で、七子とはマダラの白子、このこ、筋子、ぶりこ、たらこ、ホタテの子、たこのこで八珍とは、ほや、シロウオ、ふじつぼ、しゃこえび、くりかに、うに、なまこ、さめのことです。
<津軽らーめん・シジミラーメン>
いま何処でも地方の名が付いてるラーメンがある。札幌、喜多方、津軽等である。勿論ラーメンは中国からやって来た。日本国語大辞典によると明治時代に、「支那そば」「南京そば」と呼ばれ、日本でも喰うようになった。小麦粉、卵、かん水を混ぜてこねてつくった麺なそうである。
確かに、小さい頃は「支那そば」と呼んでいた。細い縮れ麺でなにか薬くさい味がした。いまは魚出汁であっさりの醤油味の縮れ麺を「津軽らーめん」と言っている。昔の味とはちょっと違う。また、十三湖で採れる大和シジミを入れたシジミラーメンも人気である。
<暮らしを支えた宗教>
この厳しい環境で生き抜くのは大変でした。江戸時代には新田も開発されたものの、岩木川の河口は泥田で災害も多く、藩政、地主のもとで庶民は喰うことさえままならぬ時代が続いて、その苦を宗教に頼ることは一般的でした。仏教は勿論、津軽では「神様」新教も盛んでした。本来の新道に「お山」信仰、「オシラ様」信仰が加わりました。途方には「カミサマ」といわれる人が悩みを聴き、お告げで占いをしました。また、イタコという人も死者の霊を呼び死者の言葉を「口寄せ」しました。津軽では、赤倉神社や川倉の地蔵が有名です。同時にこの祭祀ではみんな慰め合い、生きる歓びをも共有し踊り唄う等娯楽的性格も持ち合わせました。
西津軽には特にお地蔵さんが各部落の入り口にあり、身代わり信仰が盛んになりました。子供が早死にした時は供養のため子供の着物を着せ化粧して祀りました。十字の前掛けをしたものが多くありますが、江戸時代にキリスト教弾圧で津軽にも信教者が流されてきた記録があり、その名残と思われます。
<津軽弁コーナー>
な・・・・あなた わ・・・・わたし とっちゃ、あや・・・・父 かっちゃ、あっぱ・・・・母
あさぐ・・・歩く はける・・・走る おける・・・転ぶ よためぐ・・・よたよたする ねまる・
・・座る ふっぱる・・・引っ張る おつける・・・押す えふりこぐ・・・かっこつける
まなぐ・・・眼 ほぺた・・・頬 なずき・・・額 おとげ・・・顎 ぼんのこ・・・うなじ
けっぱれ・・・がんばれ おじょむ・・・おじけづく いぱだだ・・・変だ のれそれ・・・どんどん
どつてん・・・おどろく めごい・・・かわいい みたぐなし・・・みたくもない
<クイズの答え>だんぶりーとんぼ ・ もっけーかえる ・ とらぼーーいなご ・ がさえ
びーしゃこえび ・ じやっこー雑魚(ふな等) ・なずきーー 額 ・ぼんのこーーうなじ
ほぺたーー頬 ・どんずーーおしり ・よろたーー太股 ・ あくどーーかかど ・
・
<りんごの話し・かわいやリンゴ・見るなら秋のリンゴ畑>
青森の産物の第一はりんごといわれるくらいですが、りんごは明治時代藩政崩壊で職を失った者に殖産興業の一環でアメリカから導入されました。
明治時代西洋りんごの主力品種は和名国光、紅玉、祝い等7品種でした。品種は改良を重ねられてきますが、昭和に入りスターキングデリシャスの苗木がアメリカから移入され一世を風靡します。いま一番人気のフジは藤崎町で生まれた国光にデリシャスをかけあわせたもので昭和33年に正式に登録されたものです。またジョナゴールドは紅玉とゴールデンデリシャスをかけあわせたもので昭和43年に命名発表されたものです。フジやデリシャスにも多くの品種がありいまでは数え切れない数の品種がうまれています。紅玉は酸味と甘味がありジャム、焼き林檎等にもなります。デリシャス系は爽やかな味が特徴でフジは蜜も歯ごたえとさらりとした甘さ、日持ちのよさが特徴です。りんこジュースもたくさん生産されています。
県の生産量は約44万トン、日本では一番の生産量で、世界7番目ですが、味は世界一番です。りんごの圧巻は収穫期のリンゴ畑、見事な赤いリンゴが感動を呼びます。アップルロードや岩木山の環状道路には安い販売小屋が並びます。弘前のりんご公園、黒石のりんご試験場、板柳町ふるさとセンター、県庁の広場でも見られます。
歴史は
津軽の古代は中央政権から遠い蝦夷の国で日本書記等にも記述されていますが、何と言っても三内丸山遺跡が発見されて有名になりました。 縄文の時代5500〜4000年前くらいに500人程暮らしていたようで、魚、小動物、木の実、穀物等を食べ、6本柱の櫓や集会所もある集落を形成して北海道や秋田、新潟方面とも交流し、思った
よりも豊かな生活をしていたことが判明しています。また、それ以前の旧石器の遺跡も蟹田、岩木山の麓で発見されており、さらに亀ヶ岡遺跡では縄文晩期の遮光土偶も発掘されています。
古くは津苅、都賀留とかよばれていましたが、中世平泉藤原の頃には郷で外ヶ浜、西浜、鼻和、山辺、田舎館、平賀と区分されて呼ばれていました。その後安倍と関係のあると言われる安藤が津軽一帯に勢力を伸のばしました。鎌倉時代流刑地としてされ異民族の住むところと認識されていたようです。北端の抵抗の地、蝦夷の国という蔑視的見方で見らて
いた訳です。
安藤は室町時代南部との闘いに敗れ津軽を去り、南部の支配がつよくなりますが、南部久慈の光信が鰺ヶ沢に入りやがて一族は為信が南部にも反乱し津軽を統一していきます。
さて、津軽が藩として幕府に認められ、関ヶ原にも東軍として出陣し、その後築城をして新田開発、港の新開設等の経済的改革も実施しました。 深浦、鰺ヶ沢は昔から湊として知られており、北前船の拠点として商業が栄えました。これらの町には越前谷、能登屋等の屋号の商人が活躍していました。しかし、庶民は未曾有の飢饉に遭い困窮を極める日々がありました。
近代の夜明けには、弘前藩は官側につき、南部は幕府につき混迷したが、明治四年に廃藩置県がなされ今の青森県となりました。産業として林檎が取り入れられ、岩木川の改修も始まり、鉄道も発達し産業は発展してゆきますが、庶民の生活はくるしいものでした。自由民権運動等の政治運動が勃興し、農民運動も盛り上がってきますが戦争の度にそれらはのみこまれてゆきました。
太平洋戦争では林檎も戦争に役ただずと卑しめられ、軍歌等以外は検閲で歌えないこととされ、県出身の淡谷のり子は慰問で兵士に請われて「ブルース」を歌った話しは有名になりました。
戦後は農地解放、普通選挙に支えられ復興と石油産業、家電、自動車産業、情報産業の発展のかたわら、南部が原子力産業に揺れる中、津軽は第一次産業を土台に、養殖、観光等に力をいれています。全国的に見ると厳しい状況ですが、津軽の財産は海、山等の自然でそれらを活かした新しい地方の時代に転換してゆくことで心豊かに暮らせる基本と考えられています。
ー 「青森県の歴史」ー山川出版社外参考ー