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 新日曜美術館で微細な自然の絵画に挑んで夭逝した犬塚 勉氏の絵画に魅せられ、我慢ができなくなった。丁度黙っているのも飽きてきた頃でもあった。
 この際、行きそびれていた山梨県立美術館のミレーにも是非と思い2泊で決心した。
 東北新幹線、中央本線を乗り継ぎ意外にも早く甲府についた。こじんまりとした小都市の顔は小綺麗でさっぱりした感覚の街である。さすが果物、桃、プラム、ブドウは安い。電車の車窓からはブドウ畑と桃の赤くなった実が見えて、山の空気と落ち着いた風景に癒された。好きなコースと言える。その日は武田神社へ、そして市内をぶらりで終了、翌日は定刻に美術館に入った。広く庭の綺麗な美術館で「落ち葉拾い」「種蒔く人」曰わく付きの「聖母」などを見た。暖かい感触と静謐な穏やかさがやはりミレーの信仰心の厚さを感じさせてくれる。またルソー、コローなどの作品もあった。作品は私はともかく見た感動を大切にする。技巧とか解説の前にその純な感動を大事したいと想っているからである。           
 さて電車で八王子、拝島、青梅、御岳、そして徒歩で「せせらぎの里美術館」へ、館へは20分程なので暑くて疲れ気味。木造和風の館は結構涼しい、また人が沢山いた。何気ない写実的草木の絵なのだが、その一本一本丁寧に描き込まれていた。絵を極めるため谷川岳に登り力尽きたという。「山の暮らし」の切り倒された小口のすばらしさはその生命力を伝えている。渓流と石、ブナノ木を見るとやはり画家の自然への畏敬が感じられる。絵はやはりその精神的ものを描き出していないと感動はしない。それに十二分に応えている絵と思う。来た甲斐は十分であった。その後吉川英治記念館、大佛次郎記念館、横浜美術館をも観ることができた。日頃鍛えていない体が恨めしくもなったが自業自得というところである。7月17日

 

 


 
 
 
  

 

21世紀にはなったけど・・ふと思う

 21世紀にはなったけど、ちょっと腑に落ちないことがありすぎる。いつの世もこんなものとしらけている人も多いが、でもあきらめてはいけないと思っている。
 1、心配なのはこのしらけムードに流されてどうでも良いという風に一部なっていることである。これはこの世をもっと悪くする。
 2、大借金が国にあるのでどうにもならない。まだ建設開発を借金で行えばもう取り返しはつかない破綻がまっている。インフレは格差を拡大し国民を貧困の底に突き落とす。
 3、どこの政治家もこの世で一番と軍事競争をしたら、財政も生命も生活も脅かされる。20世紀までに手に入れた他国は全て自治を認め、独立させるべきである。英、仏、露、米等の大国は率先することが領土問題を解決し紛争を少なくする。核を含めて軍事縮小の努力をすべきである。
 軍備拡大で平和は望めない。軍事力で他国を支配することはできない。
 4、大事なのは僅かしかない、人間の生命と綺麗な地球である。人種、民族、宗教、国家等の呪縛はいい結果をもたらさない。
 5、経済、文化交流を積極的に勧め、国の垣根を越える必要がある。いまや一国で生き延びる時代ではない。
戦争の傷(3)・無言館他

 「無言館」「信濃デッサン館」は上田市にある。しかし、市内ではない郊外の麓である。運転に少し疲れ場所を探しあぐねて二回も訪ねた。目標の建物等ないので苦労する。小高い丘へ狭い道路を上る。ようやく白壁の教会のような館が見える。いかにも静かで夭折した画家達の屋代にふさわしい気がする。
 コンクリート打ちの十字の形をした建物の中には、家族、恋人、故郷、自画像等の絵が展示されている。
これまで名前など聞いたこともない人々の絵なのだが、なにか寂寥と胸に迫るものがある。どれも派手とか特殊な技巧とかはないのだが、伝わるものが確実にある。みな戦場に消えた若者である。
 「信濃川デッサン館」は関根正二、村山槐多等画集などで知っていた画家のデッサンを展示している。彼らも早くして世を去っている。この若い画家のデッサンには自己の主張が精一杯に描き込まれている。感性の挑戦が見える作品が多い。蔦の這う館は建物としては立派とは言えないが、県立の大理石の処に飾られるより趣があると私は思う。珈琲を飲んでいると館主の窪島誠一郎氏が「無言館」の名前を使われて困っていると電話で話していた。

     9月10日

 

 

 
 
エロスの香り(2)・池田満寿夫・
 柔らかな線とエロチシム、と思っていたが晩年の淋派風の作品、オブジェの数々は少し納得を越えたものだった。
 長野に行き、善光寺を見て上田に向って居たとき、真田の里松代町に偶然に美術館があるのを知って寄った。白い外壁に瓦の屋根という和風の外観で樹木や竹も和風、彼の簡素な線と淋派の原色の作品はやはり芸術とはなにかと考えさせられる。しかし、これは考えても無駄というのが私の思いでである。
 池田氏は長野出身だつたが死んでもう10年になる。わたしも彼の年を一つは超えた。別に何の意味もないのだが。また上田市の「無言館」へ走る。
  9月8日
 
 
 



 抑留への抗議(4)・香月泰男

 「シベリヤシリーズ」という抑留の体験を元にして描いた作品は、デスマスクに似た無言の顔がくすんだ黒を基調に描かれている。戦争への無言の告発でもある。わたしはこの絵を到底忘れられなくて、美術館を探した。
 美術館は山口県長門市三隅にあるが、かなり辺鄙なところ、バスでようやく着いた。小高い丘に白を基調とした洋風の建物、それに展望台がある。
 抑留生活から脱してこの故郷三隅にかえり、この地の風景、花等も抑留の記憶を消すかのように描きつづけた。また、ブリキのおもちゃ等心を解放させるものもある。これも闇の底から生まれた生き方の術なのかも知れない。

 行ったのは05、4のことであった。  9月11日
      

記憶に残る記念館・美術館

 

 これまでの旅で訪れた記念館、美術館はおそらく百はあると思う、幸せなことである。
 北海道は神田日勝美術館、有島武郎記念館、三岸好太郎美術館、旭川市彫刻美術館、神田と有島は二回以上訪れている。ニセコのひっそりした所に建つ白い有島の記念館は落ち着くし、農民画家の神田の孤独で哀愁のある画風は私を惹きつける。中原悌二郎の近代の彫刻は人間性を深く感じる。
 東北は棟方志功、宮沢賢治、土門 拳、佐藤忠良、橋本美術館、先人記念館、以外には浜田庄司、白州次郎、与謝野晶子、ミンシャ美術館、碌山記念館、無言館、岩崎ちひろ記念館、豊科近代美術館の高田博厚、荻須美術館、三岸節子美術館、司馬遼太郎記念館、大原美術館、夢二郷土美術館、足立美術館、北野美術館、金子みすず記念館、香月泰男美術館、池田満寿夫美術館、牧野植物園、坂本龍馬記念館、維新記念館、知覧特攻平和会館、シーボルト記念館、松本清張記念館、石橋美術館、沖縄は佐喜真美術館、ひめゆりの塔、平和祈念公園等である。県とか市の美術館等含めれば相当になる。
 水俣、長崎、広島に行って来た。人間の悲劇の原点である。人間が防げることの出来る筈の悲劇なのである。
 鹿児島、山口、高知はまた訪れたい県である。
 今年訪れたのは奄美の田中一村、鹿児島の長島美術館、岩崎美術館等、外国ではロダン、ゴッホ、ドラクロア、ピカソ、ブルーデル、オランダの国立博物館、マウリッツ美術館、ライデン市立博物館、ユーゴー記念館等である。オルセーは以前行った。
 また、展覧会に惹かれて、山梨県立美術館、横浜美術館、吉川英治記念館、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館等に行って来れた。        
     09・8・24
今年は春京都に出かけた。河井寛次郎、佐川美術館、を観た。河井は京都の町屋がそのまま記念館である。佐川は守口市で駅から遠くバスでいったものの不便んなところである。しかし、平山郁夫と佐藤忠良の作品があり惹かれていた。姫路市民文学館の司馬記念館にも行けた。風邪で体調が優れず京都の駅で医者に診てもらい薬を処方され助かった。もつと行きたい所があったが諦めた。
 10年秋の旅で行けたのは北九州近代美術館、下関美術館、大坂私立美術館、みすず記念館である。

 11年台湾の博物館、寺院、北京の博物館、
12年新年の美術館巡り、ブリジストン美術館は2度目、国立近代美術館、国立西洋美術館、渋谷の文化村、 根津美術館、三菱壱号館、日本橋三越の荻須高徳展等である。
高知文学館、愛媛美術館、子規記念館、海外はウィーンのベートーベン記念館、シューベルト記念館、モーツアルト記念館、自然史博物館。
米、メトロポリタン、モマ近代美術館、文化村レーピン、
13年沖縄博物館、平和祈念館2回目、、
 


 

 透徹の眼の詩人(5)・金子みすず記念館・

 金子みすずの人気は少しも衰えない。山口県長門市仙崎、やはり交通の便利はよいとは言えない。透徹した眼を持つ詩人は童謡詩人とはいわれるが、単に感傷的な子供のメルヘンを詩っているだけでなく、自然の摂理、世の批判精神をも詩っているのが大人にも愛されている理由とおもう。
 海辺の町の小さな駅から店や郵便局等が並ぶ狭い町通りを10分ものところに記念館はある。「金子文英堂」の店が復元されて看板も懐かしい。店を通り、奥に展示場がある。みすずの経歴がかかれている。26才で死においやられたが、数字好きで、観察眼に優れたみすずは、家の中や廻りを題材にしながら、自然の成り立ちや人間の観察を織り込ませた詩を512編作品にしている。その表現はやさしく、簡素でありやはり垢のついた大人の心を浄化する作用が大きい。それに感動するのだと私は思っている。そして再度おとずれたのである。道を違えてみすずの墓に出くわした。本名は「テル」であった。黎明期のみすず、啄木、そして爛熟期の尾崎 豊等いまもやはり耳を澄まして見る必要があると思う。 9月12日

女の愛(1)・与謝野晶子

 与謝野馨氏は晶子の家系を汲む。晶子の記念館は生まれ故郷堺市にある。昨年行ってみた、国鉄の阪和駅の側なのだが、訪ねてもなかなか解らなかった。南海電鉄でいったので尚更で堺に大きな駅が3ヶ所あったからである。 堺市立文化館の中、晶子文芸館では鉄幹の没後70年特別展が開かれていた。
 明治11年生まれで1901年明治34年歌集「みだれ髪」発刊、八月鉄幹と同棲結婚沢山の子供を育て、十和田湖にもきている。その恋の歌や反戦とされる明星の「君しにたまふことなかれ」04年が有名だが、大平洋戦争には結局まきこまれて昭和17年死去する。晩年には空しさを歌った歌もある。
 この文化館にはチェコ出身のアールヌーボーの旗手ミンシャの館もある。こちらも魅力的でやはりサラ、べルナールのポスター等魅力的、官能的的容姿、髪と装飾性が光を放っている。しかし、晩年チェコに帰り、歴史画を手がけている愛国者でもある。
 是非機会があったら見て欲しい。
           9月2日

平和への祈り(6)・佐喜真美術館

 このくらい探した美術館もない、沖縄の戦争を象徴する美術館である。上田市の無言館とも同じくらいだった。私設の美術館は基地に食い込むような地にある。細い路地のところにあり、県等のものとは違い看板も案内図もない。1992年返還された土地に建てたという。主として丸木夫妻の「沖縄戦の図」を展示して学生等に伝えている。やはり自決の惨状を事実に即して描いている。互いに首を絞め合い、刺しあい、あるいは手榴弾、身投げで死ぬのを余儀なくされた思いは決して忘れることはならない。墨絵を基調の絵はレェクエムであり、静かに告発して止まない。やはり戦争は人の殺し合いで他ならない。館主が情熱を込めて解説してくれる。ルオーの絵もあった。
  教科書検定で悪しきものに蓋は許されるものではない。ひめゆりの塔、平和祈念公園も凄惨な歴史を伝えている。 
反骨白州の館(7) 「武相荘」
 「武相荘」とは白州夫妻の住居である。武蔵野と相模を取って名付けたいう。勿論反骨で妥協しない次郎が「無愛想」と引っかけている。
 次郎は吉田茂の特使として講和条約や新憲法にかかわったが、私の好きなのは「プリンシパル」という考え方で、誰でもない自分の意志をはっきり持つということである。英国で学び戦争は負けると見抜き、農家を買い、農業を一生の職業もと自負し、それだけで食いないからと東北電力の会長もした。戦時中「竹槍の訓練に出て」褒められたとか、次郎は心中どう思っていただろうか。「しようもない」と感嘆苦笑していた思う。町田市の駅から少しの荘はいまも茅葺きで、庭には竹が植えてある。次郎は竹で靴べら、匙などを手製で作った。次郎は占領軍には抵抗したが、憲法の平和主義は肯定もしている。働くものには優しく、権力をもつものには毒舌で通したという。また訪れたいところである。
 
 
子供の心(8)安曇野ちひろ美術館
 淡い独特の風合いの子供の絵と言えば「ちひろ」直ぐ想い出す人は多いと思う。多くのカレンダーでもお馴染みである。安曇野の風の吹き渡るところで広い敷地にのびのびとした木を活かした館がある。子供の平和と幸せを願う心に響くように世界も子供の絵等もある。良心が信州出身で親しんだ安曇野の土地である。一見山に囲まれた何にもないと感じられる所だが、それが絵の子供素直さと一致する。都会の喧噪の中で心ののびのびした子供が育つだろうかといつも疑問を私は持っている。ちひろの子供の絵には毅然としているものも多い。人間は単に優しいだけでは生きてはゆけない。純粋の瞳を忘れずに前を見て行くことは大切である。あの遠くの地でも沢山の人が訪れていたのが記憶に新しい。

 ロダンに魅せられ(9)碌山館・

 荻原守衛明治12年生まれ、ロダンに共鳴して彫刻家を目指す。パリ、ロンドン等美術を光太郎と見て回る。「碌山」を名乗り坑夫、文覚、女等の作品を世に出す。「生命の芸術」を求めた作品には品格がある。新宿中村屋で吐血、30才で死亡。
 館は洗礼を受けた教会を模している。蔦が這う館には心が残っているような気がする。また展示館も2ヶ所あり中原悌二郎の「若きカフカ人」等縁の人の作品もある。あの時代の真摯で前向きの作品に惹かれる。高村光太郎の碌山を惜しむ言葉が胸に残る。私は一般の公立の美術館よりもこのような個別の人の息づかいも感じられる程のものが好きである。

・中世の古都・平和のシンボル・

 私にとって遠いが、是非行ってみたい国ポーランドであった。私の年令だとアウシュビッツ、ショパン、連帯のワレサを思い出します。昨年の広島、長崎に続く候補地には前から考えてはいたものの、言葉の壁、良いツアーが探せない。遠い等とためらいの理由を挙げて決意を伸ばしてきました。
 ネットで一人行動のできる、しかもアウシュビッツで日本語案内、ショパンのリサイタルまで行けるツアーを発見、今の年令では最後のチャンスと決行をしました。基本的には一人旅、3月30日フィンランド航空で成田出発。
 いつもの癖、出発前にはいろいろ心配しましたが、飛行機に乗ったらそれも吹っ切れました。フィンランド機でヘルシンキで乗り継ぎワルシャワのノボルテホテルに宿泊、ワルシャワは高層ビルも見られるが、デパート、スーパーはなく派手な上海とは違いました。市内電車、地下鉄はあり便利です。小売の小さな店が市民の生活を支えています。私はこの人と人が直にふれあえる感覚が好きなのです。31日
 1日、目的のショパン博物館、聖十字架教会などを求め喫茶店、本屋等も多い新世界通りを歩きました。ワルシャワ大学もあり落ち着いた雰囲気です。古風な城を感じさせるショパン博物館は二階が展示室、案内の叔母さんが多くびっくり、8ズボルテの入館料、350円程だから安い。ショパンの手紙、使用したピアノ、楽譜、デスマスク、複製の手等、やはり感慨深い。手紙、楽譜はデジタルの複製で筆蹟まで解るので感動が深い。顔立ちは面長の両親なのだが目などは母親とそっくりである。ショパンの生きた時代もロシヤ、プロシヤ等の侵犯や支配を受けていてショパンも抵抗していた。
 何と言ってもリサイタルである。小さな宮殿でのカタリズィナ グリンカさんのショパンは13名だけの聴衆よりいないものの、鮮やかな技巧と精神的な深さと同時に気品、誇りを感じさせるもので、単なるロマン的なものではなかった。やはりポーランドの歴史が秘められていると感動した。聴衆にも媚びてもいない、厭な叔母さんがキョロキョロして、曲の合間にフラッシュで撮影したのには幻滅であった。あの演奏を理解してないようだ。
 2日古都クラコフはワルシャワから3時間ほど列車に乗る、列車もこの旅で楽しみにしていたことでした。車窓からどんな風景に遇えるかが楽しみ。広い原野、畑が続き、小さな農家が点々とあり駅もない。時折赤松林や耕作する農民と会うが、生活、学校はどうしているのか気になる。クラコフの近くになってから漸く集落と駅があった。山や川も見えないただひろい丘、鳥等もあまり見えない、ただキジをみかけたのみだった。
 クラコフはかって中世の都、まさに宮殿、多数の教会、古い建物の中世の観光の街だが、公園も広く緑も多い、トラムも走る。ついたホテルの主人と客が札遊びをしていた。のんびりしている。しかし、受付はパソコン、ネットである。
 翌3日朝時間を間違え案内の人を待たせてしまった。スラリとした、化粧もしていないヨアンナさんである。言うことははっきりしている。遅れた理由を聞かれて、私は素直に謝った。日本語はすばらしく流暢で、日本には五回来ていて、方言の研究に琉球にいたこともあるという、大学で日本語と、地理を教えているという。素晴らしい案内でアウシュビッツもその歴史を思いこめて語ってくれた。祖国、人間への愛を感じる感動をうけた。また加藤登紀子氏の案内もし、家族と付き合いもあったという。是非会ったことを伝えて欲しいという。また地理の資料が不足しているとのことで送ることを約束した。アウシュビッツではポーランド始め多くの国の人々が政治犯等として虐殺されたという。私は罪のない者への虐待にはいつも怒りを感じる。また、別のケルビナウという収容所もあり、そこでユダヤ人の虐殺が行われた。そこは馬小屋を収容所にした跡、ガス室が2ヶ所が一挙にその時を思わせ、戦慄が走る。私は自然、平和、音楽を愛してやまない。アウシュビッツの帰り、車の中でヨアンナさんと加藤登紀子の「ひとり寝の子守歌」を口ずさみ、夜時間があったのでリサイタルがないか訪ねると、運転手さんが熱心に無線で探してくれた。また、ヨアンナさんは今のチベットの事件について「チベットに連帯する」と熱く語っていた。年令はもう40才半ばは過ぎていると思うのに、その熱意にポーランドの歴史の過酷さが感じられました。  探してくれたヤナ通りのショパンリサイタルに夜ゆくことができた。二回もリサイタルに行けたのは最高であった。夜行寝台列車まで案内してくれた運転手さんと固い握手を交わしてクラコフを離れた。4月3日ポーランドに熱い思いを感じてチェコへ。         4月14日

(10)津軽のゴッホ?・志功

 勿論津軽の版画家、棟方志功は貧しい鍛冶屋に生まれたが絵を志し、「わだばゴッホになる」と油絵をやったが認められず、川上澄生の影響もあり版画に移る。民芸の柳、河井氏等と合い仏教にも目覚め、強烈な個性で独特の板画の世界を生む。鋭い線、丸顔のふくよかな女、裏彩色等の特徴を持ち、私は明るいエロチズムを感じると同時に、そこ底に原始的女性崇拝も読みとれる。あの意識の根底には津軽の宗教的陶酔、極彩色のねぶた、それから解放されたいという強烈な意識を感じる。長部日出雄の伝記「鬼が来た」がまことに意をえていると思う。記念館は市内松原にあり、県美術館にも展示されている。
 

(11)蔵書にかこまれた司馬遼太郎

 何時の日からか、遼太郎の記念館にいつかは行きたいと思うようになった。「街道をゆく・北のまほろば」を読んだからであろうか。記念館は東大阪市にあるということが本の後ろに書いてあった。
 近鉄奈良線に乗り河内小阪で降りると小さな商店街があり、神社等を見ながら路地のような路を歩き、あまり目立た無いがようやく記念館の門に辿り着くと、ポランテアの人が3人も立っていて案内してくれた。門には本名の福田の表札もあり書斎の垣間見える庭の小径を抜けて半円形のこじんまりしたやさしさを漂わせる記念館に着く。ここでもポランテアの叔母さんが案内していた。地下から書棚が天に向っている。辞書等あらゆる蔵書の山であった。流石と感服する。「北のまほろば」のために津軽に取材の旅した時の地図も展示していた。金木、市浦等訪れようとする所に印があり、実際津軽に来たのだと感激した。ちなみにその本の表紙の写真は十三湖河口の朽ちた老船と日本海である。何か氏の取材を彷彿とさせるもので、それで私は満足した。館を囲む自然の雑木の木立も快いものである。氏は自然風合いを好んだそうである。帰りは八戸の里という駅から電車に乗る。これも青森の八戸がつく駅名であった。

    心にのこる記念館・美術館 
旅とは何かを求めて歩いているようだ、私の場合人とその足跡に惹かれているようだ。

 

(12)風貌がわかる龍馬記念館

  何かガラス張りの建物が宙に浮いているようで、度肝を抜かれる思いである。龍馬の幕末に抱いた海洋に打って出るという意志を感じる。しかし、あまりにもモダンである。
 中にはいると司馬遼太郎の思いを記した屏風があり圧倒される。記憶に残るはいずれも複製であるが姉に宛てた手紙、血のついた掛け軸、拳銃等である。鮮烈に生きた様と手紙の仮名遣いのユーモアある手紙は龍馬の気質を彷彿とさせる。龍馬が望む海も見え、直ぐに桂浜銅像がある。社会の体制はそれまでのものが行き詰まった時に変えられる。現在もその状況を呈している。維新も鹿児島、山口という政治の外れた処から火が噴いた。いま沖縄、北海道、東北等格差がこびりついた土地から火の手が上がっている。いまは民主主義なので武力蜂起はないが、選挙によるの反乱の手があげられているのである。
 それにしても記念館の他、蝋人形の歴史館、生まれた町記念館もあり、自由民権記念館等興味あるところが一杯である。また行きたいところの一つ。

(13)農民画家神田

 何時の頃か忘れたが、新聞が壁に貼られた部屋にぽつねんと座る男の絵を見て、この孤独感や人間の哀しみのリアルな表現に引き込まれた。北海道の鹿追町にその作家神田日勝の記念館があるのを知り、知床等を訪れながら寄る。苫小牧で早朝フェリーを降りてひた走ると昼前に町につきゆっくり見ることができる。馬、農民の昼寝、農産物等実にリアルに哀愁を帯びた目で描かれている。やはり開拓の厳しさから生まれた作品で若い日勝の真実を見る眼と画家としての悲憤みたいな熱情を感じる。何かいつも突き動かされる感動がある。

(14)白樺派有島記念館

 北海道に行ったら是非お勧めの所と言いたい。東京生まれの武郎が農地解放を大正に行った地である。大正の時代に女の自立のテーマで「或る女」などを発表し、11年には農場を解放した。
 ニセコの雄大な山が見える静かな高原に白い形のかわった建物がある。この雰囲気がゆったりとして白樺派の心を伝えているような純粋さを感じさせてくれる。勿論世間、世俗に悩まなくてすむような、この地だからこそ解放できたのかも知れない。武郎はその純粋さ故に軽井沢で女性記者波多野と心中で生涯を終えた。45才。


  

 
奥多摩等の旅
    ・犬塚 勉・

津軽の風景若い陶工

 

 

 

 (15)  熱い画業三岸好太郎・節子

 札幌にある好太郎の館はそんなに大きなものではない。才能にめぐまれながら早く亡くなってしまった。しかし、絵は具象、抽象等あらゆる技法で描かれた。道化の作品はルオーの作品に通ずる人の哀しさを秘めている。節子は一宮市に美術館がある。具象と抽象の間とも言える花の作品は圧巻である。強い花の意志をグラデーションにしたもので、最後まで強靱な意志でフランスへ出かけるなどの画業の道を貫き通した。夫の遺志を表現にしたものとも言える知れない。私はこのような画風に惹かれるところがある。

 

 思い切ってのヨーロッパへの旅、まさに老いた渡り鳥の気分で、いつ渡りの途中に落ちても良いという心境で飛行機に乗った。政治と金の問題に嫌気もあって、ちと憂さ晴らしにもとなるとも思う。安い料金を探しキャセィパセフックで香港経由となった。朝オランダに着くのがよい、ゆっくり電車でアムステルダムへ行けるからある。空港で時間があるので食事を摂りゆったりと入国の手続きをすると「ひとりでの老いた鳥」への質問はきつく「英語わかるか、連れはいないのか、チケットあるか、なんの目的か等」若い検閲官が見下した態度で言うのにはすこしむっとなったが、なんとかクリアした。
 オランダは水=ダムの都で駅前も運河がある。古い煉瓦の建物も落ち着いていた。第一印象は良い。美術館の付近のホテルまで市内電車でゆく。何本もの運河を渡った。ゴッホ、国立美術館はホテルの近くで散歩がてらに歩いていった。芝生の広い公園が気持ちを落ち着かせてくれる。ゴッホの風景画、からミレーの影響で極色彩の荒いタッチに変る。青い夜と月の絵がうねるようなタッチの風景に変容する様はゴッホの精神的変容も表しているようである。国立美術館は、レンブラント、ヤステーン、フエルメール、どれも素晴らしい、特に「夜警」「サスキァ」「自画像」また肖像画のどれも明暗を駆使した細密でいながら活き活きとした描写、そして個性、特性を逃さない描写、それに衰えを見せない、絵の輝きは三百五十年の歳月なんぞ感じられない。ステーンの民衆の日常の光景も楽しい、楽器、動物も画面を賑わしている。フェルメールも4点。来た甲斐があったと感激した。見学者も多い。学生の集団も訪れているが、中学生なのに背は私と同じ具合で女性もみんなダントツの高さである。家族連れ、老夫婦もゆったりと見ていて暖かい雰囲気に囲まれていた。ホテルのカウンターも高くびっくりした。そして何か颯爽としている。活き活きとして勢いがあり、若い人たちの歓声があちらこちらで聴かれる。

 
ホテルのレストランは「MOMO」と言う名前である。日本流の弁当が売りで、私もチキン弁当を食べたが結構おいしかった。日本人も多いが、町のお客も多く人気の場所となっていた。客がウェトレスになんで「MOMO」なのかと聴くと、「マスターが日本の花の名をつけたようよ」と答えていた。
 ホテルの前も直ぐ運河がある。若緑の柳の葉と薄紫ピンクの花がきれいで、やはり水辺は心を穏やかにしてくれます。母鴨が小ガモを連れて泳いでいるのにやはりみんなが酔ってきて声援を送っている様はどこの国も同じです。アムステルダムはそんなに大きな都市ではなく煉瓦の建物が続き、教会も美しい。自転車で隅々まで走れそうな何か暖かい雰囲気も残る、私の住みたい町に入る雰囲気があった。
 さて、翌日は電車でデンハーグへ、切符は何とか買い、ついでにパリへの往復切符も買った。ヘアリングに弱いのでやっとの思い、やれやれと重荷を下ろして電車へ、デンハーグは国際司法裁判所や議事堂もある政治の中心、しかも大平洋戦争突入時に安達峰一郎という日本人が裁判長をしていて、当時の斉藤首相に戦争を思い止まることを伝えていた。もっと知られてよい事柄である。しかし、私の目的は美術館、マウリッツにはレンブラント等の作品がある。1時間位の旅の末駅到着、ところが前に確認していた駅とは違う。国際列車等の駅であった。すこし頭が混乱、確認にしばらくかかった。さいわい駅前の市内地図で市内電車で行けば直ぐなことが判明した。しかし、電車も乗り越し、やっとのことで目的場所に到着、疲れた。しかし、美術館を廻っている内にそれも忘れた。とくにレンブラントの自画像に人間の真実をそらさない迫力があった。栄光を極めたあと妻の死、そして没落、財産も失う、そのままの姿を自分で描き出している。人生に疲れた姿がなまなましい。対象の真実から逃げていない。
 私も今の年になって自分から逃げるわけにもいかない。そのまま歩きつづけるのである。レンブラントを観たいのは、それを確認する意味もあった。
 それからライデンへ、ここはシーボルト等日本の歴史と関係のある都市である。学生の街でけっして大きな町ではないが運河には昔の船も停泊ゆったりした良い気分を味わえる。またしても住みたい所に加わってしまった。だが、デンハーグで時間をとり疲れたのでついに又来ることにして、シーボルト記念館等観ることを諦めた。その翌日はダム広場を中心に歩いた。中学生の集団によく合う。集団の見学のようだ。
   「さてパリへ」
 赤い国際列車タリスの2等、つまり庶民の乗るクラスである。案内は4カ国語で流れる。向かいの席には老夫婦が座った。ふたりともがっちりした身体で夫の指の太さは私の2倍以上、長さも1、5倍た。妻はいつもにこやかで静かな口調で話している。堀の深い顔に優しい目がいつも廻りの若い者へ向けられて暖かい。夫は毅然としているが優しい。質素な身なりながら清潔である。素晴らしい夫婦である。昼食には二人でパンを食べてすました。パリで別れるとき「バイバイ」と私に夫が行ってくれた。白髪の頻りに写真を写す東洋老人に興味は持っていたようである。暖かい気持ちが遺った。
 パリの北駅に着いた。やはり降りる人も駅の中も人混みである。せわしく歩いていて私の姿に目をとめる人などいない。メトロのマークを確認4路線への案内通りに行ったがメトロの切符を自動販売機で買わねばならない、迷っていると黒人の若者が教えてくれた。一度の乗り換えでそれでもマドリーヌに着く、心配していたホテルも直ぐ分り安心した。ホテル「クイーンメリー」は大きくないが内装は綺麗で落ち着いた雰囲気である。朝の食事もそれなりの質で良い。結構日本人の女性が利用していた。翌日はモンパルナス方面へ、先ずはロダン美術館へ、地下鉄の出口が近く迷わずに済んだ。大きな建物、広い庭があり、公園のようである。展示の建物は別棟で素晴らしい。しかも写真は自由に撮ってもよいということである。勿論めぼしいものは写真に納めた。ロダンはありのままとそのその人物の精神的ものまで表現しようとしている。様々の真実の姿を捉えている。高村光太郎、荻原守衛等日本の彫刻界の理論的指導者といえるロダンの作品を見られたのは感激である。恋人のロマンス溢れる作品の数々もある。ロダンの次ぎはブールデル、そしてドラクロアの美術館へ、ドラクロアはショパンの肖像をも描いた画家である。19〜20世紀初めはやはり高揚する精神の時代であったようだ。帰りルーブルの辺りの公園を彷徨い、その地下で食事をした。
 翌日はモンマルトルへ、少し迷いながらもサクレクーレ教会の丘を目指す。絵描きが周辺にアトリエを持った地である。しかし、ルノアールの家等探したが見つけることはできなかった。白い大きな教会、それに絵書きが集まるアルテル広場、
 昔の雰囲気が遺る喫茶にレストラン等人間くさい匂いがあるところでほっとする。
そしてまた地下鉄でバステーユへ、勿論市民革命の地、しかし、もう記念碑よりその面影は広場にはない。そのエネルギーは市場に引き継がれた。野菜、肉類、チーズ、雑貨等なんでもあり、庶民が買いだめに訪れている。どこの国もやはり市場は面白い。そしてユーゴーの家、ピカソ美術館へ、私は現代の美術は何を求めているのか疑問に思うところがある。キュビズム、抽象画が人間の何の面を表現するのか、現代の何を表し、それが進歩なのか疑問があるのです。原始時代にある意味で回帰したとの思われるのですが、エネルギー、高揚が感じられず、発展
し尽くした現状の虚脱感さえ漂っていると言えば顰蹙を買うのかな。

 

津軽の風景 

  



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小都市の魅力ドイツ音楽の旅・失敗もたのし・・
 最近は体力の衰えを感じる、果たして旅を愉しめるのはいつまでという気持ちに追いやられる。そこで「歩けるうちは」という想いに駆られる。
 今回はドイツの旅へ出かけた。前にロマン街道へいったもののツアーなのであまり自分の見たいところへはゆけない苦い思い出がある。ただ、ドイツのハイデルベルグ等の小都市の魅力は感じてきた。いままでだとポーランドのクラコフが最高てあった。中世の城下町がそのまままだ生きているし、なんとも人間臭い町の匂いが気にいった。その雰囲気がドイツの小都市にはあると思えた。
 勿論ドイツ語は話せない。「ャ―とマイン、ダンケ」で通して、あとは英語でなんとかである。ともかく行けばなんとかなる。
 ドイツで狙いをつけたのはゲーテ街道だ、フランクフルトからベルリンへの道でワイマールとライプツィヒに寄る。ワイマールはゲーテとリストの家がある。ライプツィヒにはシューマン、バッハ、メンデルスゾーンの家がある。そしてベルリンではあの東西を分けた歴史的「壁」を見たいと思った。それにボンにはベートーベンの家もある。私はストレス解消にクラシックも聴く。オンリーではないがやはり気分が落ち着く。古典からロマン派が中心である。
 フランクフルトについて、翌日ボンへ行く。電車で行くのだが、5日有効の鉄道パスを日本で用意して買った。鉄道が縦横に発達しているので便利で安い。ICEはドイツ自慢の特急で、白い車体は何か親しみやすく、車内は日本の新幹線と変わりない。2等だが座敷指定は特別必要ない。駅には情報センターがあり、目的までどの列車に乗換をしていったら速く着くかコンピューターで瞬時に教えてくれる。
 ICEの白い車体は割とゆったりと走る、線路は日本のような専用で独立したものではない。町を出ると車窓は低い山合い覗かせる。緑の木々が爽やかで新緑が美しい。やがて丘が見えるようになる。菜の花や麦、牧草が視界にひろがり北海道を思い起こさせる。点々と見える農家の白い壁と屋根は緑に映えるようにのどかな風景である。日本のように人家等が゛連続している風景はない、人口は日本の6割程度である。工業国と言われるが風景にはあまり感じられない。列車を一度乗り換えてボンに向かう。期待は高まっていった。
 風格と威厳がある町ボン
ボンは人口31万の小都市である。町の中心街は歩きまわれる程度でも、派手さはなく駅から3階建ほどの古い建物も混在する道をゆくとマルクト広場も近い、広場には威厳のあるベートーベンの像が立つている、ベートーベンはここで生まれ、死んだのはウイーンである。広場にはテント等の出店市場が並び家族、子供づれ、観光客が溢れている。また市場では買い物をする市民も日常の風景だ。
 なんと言ってもここの目玉はデスマスクを含めてベートーベンの生涯が分かる展示博物館である。近代的なものでなく昔の木造の建物を利用したのが良い。いくつもの小部屋に別れて生涯の紹介、肖像画、楽譜、聴覚を補助する補聴器、ピアノ等があり、人生の苦難と栄光が感じられる。例の苦虫をつぶしたような塑像も庭に並んでいる。日本人も来ていて、さすが訪れている人の幅も広い。ここの町の人は大学もあり学術の町としの誇りを持っているようで堂々として何かゆとりを持っている。巷でパイプをくゆらし、悠々と街を眺めている老人には品格を感じさせられる。またバイオリンやアコーデオンを弾いて暮らしている人等も多い。市場も賑やかであった。フランクフルトからは乗換て2時間程である。ゆっくりそぞろに歩いて楽しんでいるとレストランでワインを飲んでいる老夫を見た。なんとも旨そうなのでつられてレストランに入り昼食をした。ビーフとワインを注文して悦にいり周りをみながら食事をした。やはり婦人等中年以上の人が多い。若いウェートが腰に計算機を下げて忙しく働いている。気分は良かったものの、ワインの附けは後できた。写真をとり気分良くライン川をゆく運搬船を眺め「やはりこれもドイツの風景」と楽しんで、マインツで電車をのりかえ車掌にフランクフルト行きを確認して乗り込んだのはよいが、パスをどこかへ無くしていた。車掌に英語で話したが通じない。しかし、あとは情熱で訴え、根負けしたようにフランクフルトで降りるように言ってくれた。それにしてもパスの有効期間4日を残して、また駅で4日のパスを買うはめになり、昼のワインの怖さを知らされた。以後「気を付け」である。
    つづく   6月8日

 田舎の観光地ゲーテの街ワイマール
だいたい旅の初日はホテルに着いて終わりである。フランクフルトでは少しホテルを探すのに苦労した。地図は略図なので正確を欠く、また時差ボケと疲労で頭も鈍いのが通例で、フランクフルトでもその状況だった。
 さて2日目のボンの後3日目には鉄道でワイマールとライプツィヒへ向かう。少し電車は遅れたが無事乗車した。荷物はリック一つと手提げカバンだけである。ワイマールは小さな平屋の田舎駅であるが、ゲーテハウスがある観光地である。。バスにのり街のゲーテ広場へ行く。行き先を告げるとそこに行くか教えてくれる。料金は大抵運転手に乗る時払う。ゲーテとシラ―はドイツの有名人の最高峯である。古い建物に絵画、図書、記念品が並んでいる。官吏でもあったゲーテなので格式は高い。私にはそれが気になる。あまりそれらのものには興味がない。一通り見て出たが、突然の俄か雨、それも土砂降りである。幸い雨具は容易していた。暫く店のところで雨宿りして、リストの家を目指したが、なかなか見つからない。言葉には自信がないので地図はよく見ている筈だが、よく間違える。思い直してコースを重い足取りで歩いていると、日本人の学生らしい女性に声をかけられ、リストの家を教えてもらうことが出来た。小さな二階建ての家であの超絶技巧のピアニストが死を迎えた。「愛の夢」等が有名である。
またゲーテ広場に帰り、スイ―ツが食べたくそのレストランに入った。3、5ユーロでアップルタルトとコーヒーが楽しめた、安い。
           6月27日
 
音楽の小都市ライプツィヒ
ライプツィヒは大学もあり結構大きな人口44万の都市である。駅も大きい、プラットホームも20以上あり、頻繁に列車が発も着する。市電も本数、路線も多い。ゲバントハウス等音楽も盛んな街なので、バッハも過ごしたし、シューマン夫妻も暫くいた。メンデルスゾーンハウスもある。
 バッハはアイゼンナハで生まれたがここのトーマス教会で27年音楽に携わりここで死去し眠っている。多くの名曲が生まれ、バッハ博物館でその生涯、楽譜等見ることが出来、また音楽も聴ける。広く、近代的な展示方法の内容である。ベートーベンと等しく魅力あるところである。
 シューマンはクララとの結婚の時期4年程住んでいた。小規模の展示でひっそりした住宅街にあり探すのに苦労した。また教育施設とも一緒で学生の教育にも使われていた。メンデルスゾーンハウスもそんなに大きくはなく、音楽施設との共存である。これらの博物館で日本語の案内書があるところもあり、どこも親切あった。ただ質素の観があるところもある。ドイツではどこにも音楽があるのは普通のことのようで、特段変わったことではないようだ。日本でも大きな市等ではオーケストラがあるようになって国際コンクールも行われている。
 
二分された首都ベルリン
 冷戦時代の象徴ともいわれるベルリン、東西の壁が取り壊されたのは1989年のことである。当時は何につけて社会主義体制との比較で話題にされていた。繁栄、人権、壁を越える逃亡等である。いまはその面影は記念に残された壁によりない。まだ東に残る格差が言われるが、日にちがない日程ではゆっくりと考えてみて歩くことはできない。幸い宿のホテルあるのアレキサンダー駅から近くの壁が残されている場所に行くことができた。平和への想いが壁に描きこまれ、学生等が訪れて記念の写真を撮っていた。くったくなく振る舞う彼らの姿からは歴史の重みやしがらみは感じない。
ホテルのあるアレキサンダーも中央駅も近代的顔をもつ街なみである。駅にはいろいろな店があり、特に食べ物関係の店が多い。ドイツでは便利に駅で食事も済ませる人も多いという。中央駅は東西の中心駅とも言え何層にも重なるホームがある。地下鉄、市内、近郊、都市間、国際等の鉄道がひしめいている。何かデパートの中にいる感覚に襲われる。人々はそそくさの毎日を飾らない姿で過ごしている。観光地という浮いた感じもない。じつに普段の感じがする。しかし、この国のもつ重厚で荘厳だが東洋の人には少し冷たい感じもする。見下しているのではと思えることもある。私には堅苦しい雰囲気が気がかりと言うころである。

<読書・感動したもの>
 「一色一生」志村ふくみ・「トルコ風の旅」新藤悦子・「中浜万次郎」中浜博・「東北・アイヌ語地名の研究」山田秀三

ARASKA「風のような物語」星野道夫

(16 )佐藤忠良・クールな近代感覚

 群馬の人は自然素朴な男の容姿をけれんみの無い表現、「帽子・夏」や娘オリ江の具象の世界に何度も浸ることが宮城県美術館の別館でできた。荻原守衛程のリアリズムの主張もない。静寂で端正でスッと体に入り消化されてゆく感じがする。琵琶湖の辺の佐川美術館にも忠良の作品があり、訪れた。不便な場所でバスでかなりの時間を要したが、池を周りに配置した平屋のひっそりした建物で彫刻を見た、時間がなくて残念であったがそれでも満足した。3月30日死亡した。 わたしは美術品を見て自分の心に入り見こみ自分の内面を確認して平常の心になる。抑留を経験した氏ですが人間への愛を捨てずに、特に市井の大工、群馬の人、農婦、母の像等を制作している。

  彫刻家佐藤忠良氏死去

琉球・レキオス

 レキオスという居酒屋に入る。那覇国債通りの横町に昔の赤茶の瓦屋根で琉球料理と案内があるのが良いと決断した。玄関脇に辺野古の写真がある。またカウンターの上に写真集等が並び、沖縄の歴史を語るものばかりである。東松照明のものもある。どうも平和運動に心寄せる人のようだ。私が本等を詳しく見るので主人も感心を寄せている。私と同じ年程のきりりとした丸顔で琉球系の容貌である。「私も辺野古へ行ってきました。」「浜まで行けたか」「軍事施設もありゆけませんでしたが海はきれいでした」「あの海に施設を作らせてはならない」と目が一瞬光を帯びた。彼女の決意は固いと感じた。沖縄のミミガ―、ラフテー等食べ美味しいのでお勧めを聴くと「まこもチャンプルー」というのでそれを食べた。タケノコのようで本当に美味い家庭の味付けである。やがて老女が入りワインを飲み世間話をしていた。やはり女性が気軽に入るところは主人の懐が深く、話を聴いてくれるから来るのである。「レキオスとはどういう意味ですか」と尋ねると「ポルトガル語で琉球という意味」だと教えてくれた。「「ノロ」のことを聴くともうその習慣はなく「ユタならまだいる」ということ、「ユタは津軽のイタコである」この旅行で一番の思い出になると思った。
 朝晴れなのでレンタカーで北へ向かい、小高い丘を縫い辺野古を目指した。高速で宜野座へ海岸線を走った。やはり海は沿岸はエメラルド、遠くは紺碧で美しい。町は寂れて寂しいが軍事施設は広大で厳重に塀が巡らされている。遠くから付きでた先にある小さな島の辺を写真に収めた。帰りには嘉手納基地で軍用機の写真も撮り、何か重い宿題を背負わされた気分で那覇に帰った。
 石垣では八重山上布、ミンサ―の工房を訪ねた。ミンサ―は女性かわ男性に贈る帯等を草木染めの棉の織物である。今は財布、テーブルクロス等様々なものがある。八重山上布は麻の薄い絣で南国らしく爽やかな風が透き抜けるようなこの地方の伝統の織物で見るだけでもなんとも言い難い感動が湧く。人の生業の手仕事の美しさはやはり最高とも思える。

^ハイな若い女性社員
 2日久しぶりに故郷の町の夜を楽しみに行った。ホテルから紹介された居酒屋「さくら」へ行き、刺身を注文ビールを飲む。結構大きな居酒屋でもう既に2階で女性の元気のよい声が下まで響いていた。店主に聞くと入社祝いとのことである。それにしても嬌声が漏れてくる。地元の居酒屋でやはり観光客てはやって行けないという、有名な゛立ちねぶた」も観るとバスで帰るという。ねぶた時期でさえ、そんなに潤いはまないという。やはり泊りが少ないのだ。
 そんな話や昔話をして1時間程で出て、今度はスナックEに入る。幸い中は広く落ち着いた店でママ一人である。15年やってきた歌好きのママで結構年だが小柄で若く見える。中年の手伝いの女性も来た。客も2人だけだったが、やがて30人程集団で来た。女性が圧倒的に多い銀行の入社祝いの二次会だという。カラオケや踊りも飛び出す。
 ママも歌い始めたが上手い。私にも歌えというので「慕情、愛の賛歌等」久しぶりに歌う。それにしても賑やかな女性陣だと・・・あの居酒屋から来た人たちであった。銀行だという。歌を歌い終わると女性が見知らぬ私に踊ろうという。気軽に声を掛けられ驚いたが、少し踊った。それにしても今時の若者は積極的に楽しんでいるようだ。
 久しぶりに少しは良い気分に浸ることが出来た。かなり遅くホテルについた。
       2013. 4..4        

(17) フランスの美術館

オランダ・パ美術館

 

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 考えるべき

 竹島・尖閣から;

 海洋の島、日本でさえ大陸から別れた列島である。地球に国境もない時代、。
 人類も800万年からその種がアフリカに出現したと言われる。そして現代人き200万年に祖が。
 現代人は5〜6万年前に世界に移住、そして定住した。日本では縄文人といわれアイヌ、沖縄の港川人が祖先とされ、さらに渡来人が加わる。
 稲作は中国から伝わった説がある。文字、技術、官吏制度、宗教等あらゆるもの中国、朝鮮から伝わる。いわば兄弟のようなもの。
 尖閣、沖縄は日本と異なる琉球の地として文化、制度ができ、中国と交流があった。1609年島津藩に編入された。また明治にもその帰属で清と諍いがある。
 日本は秀吉時代も朝鮮に進出、明治には、日清、日露戦争を経て台湾と朝鮮、そして満州を手にした。日中戦争を経て太平洋戦争で敗北。当然の結果だった。この戦争で侵攻、支配された朝鮮、中国の国民感情は当然良くない。これは日本も考慮に入れてきたし、その姿勢は若い時代に引き継がれて和解するしかない。戦争体験のある者の時代には難しい。
 いま日中韓の経済交流、貿易割合は多く、経済生命を支えている。これは大切にしなければならない。 
 果たして尖閣はどこのものか、何がただしいかは複雑なものがある。強いて言えば琉球の土地で自治権を与えるのが良い。世界の国々も大航海時代に進出し植民地を得ているが、2次大戦後、独立が進み195国以上国連加盟。先住民の地位も回復されつつある。日本ではアイヌ問題。
つまり、そこに暮らした住民が国を形成し、領土としていく。しかし、国境、国同士はまだいろいろ紛争がある。それは和解し、決めて行くしかない。戦争で物事が決まる時代ではないし、してはならない。
 人類が地球に誕生したが、地球では多くの生物と共存しているし、それより生存の方法はない。
 地球の経済、交流も一体化しつつある。破壊より共生を選ぶのが人類の知恵である。8月16日

カメラの世界

 カメラの変貌が激しい。デジタルになり10年になつたか、いまはやはりデジタルの技術が格段に進歩して、露出、焦点、等自動でプログラムされていて安いのもでている。キャノン、ニコンは海外の店でも普通に扱われている。やはり優秀と言える。
 いまは露出もかなり感度が改善、暗い所でも明るく映る機種も普通にでてきた。撮影でやはり天候を気にして調整をよぎなくさせられていたが、普通のスナップなら室内でもオ―とでかなりよく撮れる。夜景もそうだ。
 私は、ペンタックスとキャノンのカメラを使い。デジタルになりナショナルの中盤機種を買った。最近漸く35ミリ全判のキャノンを買った。軽くて安いので漸く買えた。これまでのレンズが使えるのも決め手となった。
 レンズも高い、おいそれと買えない。そのレンズの大半が使える。デジタルは何と言っても現像はいらない。自分で明るさ、色合いも調整、プリントが出来る。それは銀板より物凄く簡単に安くできる。それが私でも使える最大の長所ともいえ、画質も物凄く良くなった。
 高齢で何を撮るのかと自問もした。幸いまだ健康で旅にもでれる。旅での撮影はやはりデジタルが良い。フイルムの心配もない。失敗も少ない。
 ただ、やはりなにをどのように撮るかかは自分の感性である。納得ゆくには使いこなせないとダメである。
 5月は2回の写真展をやる。買ったカメラで新たな視点の写真展をやれれば幸いであるるそれには自分の努力しかない。ガンバロウ! 2013.1.25

ロダン美術館、ピカソ美術館、ブル―デル博物館、ユ―ゴ―記念館、ドラクロア記念館オルセー美術館

(18) ドイツの博物館

べ―ト―ベン、バッハ、シューマン、メンデルスゾーン、リスト、ゲーテ博物館、国立博物館、

(19)オーストリア

 シューベルト、べ―ト―ベン、モーツアルト、自然史博物館、ベルべデーレ宮殿

(20) オランダ

ゴッホ美術館、国立博物館、マオリッツハイス美術館、ライデン私立博物館、シーボルト記念館、

iニューヨークで思う

昨年、ケネディ空港3ターミナルについて思ったより古い空港で天井も低く、えっと思った。飛行機かせ降りた人々はみな人種が違う人が多い。日本人と思うと、韓国、中国の人が多かった。空港で日本人の案内の人と出て駐車場にむかうと、ニューヨーク市内へのバスに乗る人を勧誘する人がいた。300ドルも取るマファイの人と案内人から教えられた。
 市内へは車で20分程はかかる。川底のトンネルをくぐり、島へ辿るつく。そうニューヨークは南北に長い島なのだ。北にハーレム、南には高層ビルが立つ。街にはカジュアルな姿で黒人、スパニッシュ、白人が混在している。もともの先住民は抑圧されスペイン、ポルトガル等に侵入され、奴隷として黒人がつれてこられた。その歴史が頭に浮かぶ。でもそんなに違和感もない。淡々と日常はある。そんなに地下鉄でさえ危ない感覚はない。駅には警察もいる。ただ地下鉄の天井も低く。地上から近いところに走っている。戦災に遭わない街なので、割と古いものがある。建物もマンハッタンでも新旧混在が見られる。

 島を碁盤の目状の道路が走る。地番は南と東からある。駅名には地番が多い。中心は50番である移動は地下鉄、バスが便利で、どこにも行ける。
 食事はカフェで質素と言える。パンに肉を挟み、野菜を付け加える。それに珈琲朝、昼の定番である。夜もレストランの食事も簡単なサラ盛りが多い。
本当に実質的で質素と言える。それにそんなに長居して食事はしない。
また、普通の市民は割とふつうに親切でもある。何気ない親切がふある。
街エンストした車にみんな寄ってきて充電を手伝っていた。 2013.1.25