心銘


心銘:牛頭山初祖法融禪師。
心性不生何須知見。本無一法誰論薫錬。往返無端追尋不見。一切莫作明寂自現。
前際如空知處迷宗。分明照境隨照冥蒙。一心有滯諸法不通。去來自爾胡假推窮。
生無生相生照一同。欲得心淨無心用功。縱横無照最爲微妙。知法無知無知知要。
將心守靜猶未離病。生死忘懷即是本性。至理無詮非解非纏。靈通應物常在目前。
目前無物無物宛然。不勞智鑒體自虚玄。念起念滅前後無別。後念不生前念自絶。
三世無物無心無佛。衆生無心依無心出。分別凡聖煩惱轉盛。計校乖常求眞背正。
雙泯對治湛然明淨。不須功巧守嬰兒行。惺惺了知見網轉彌。寂寂無見暗室不移。
惺惺無妄寂寂明亮。萬象常眞森羅一相。去來坐立一切莫執。決定無方誰爲出入。
無合無散不遲不疾。明寂自然不可言及。心無異心不斷貪淫。性空自離任運浮沈。
非清非濁非淺非深。本來非古見在非今。見在無住見在本心。本來不存本來即今。
菩提本有不須用守。煩惱本無不須用除。靈知自照萬法歸如。無歸無受絶觀忘守。
四徳不生三身本有。六根對境分別非識。一心無妄萬縁調直。心性本齊同居不攜。
無生順物隨處幽棲。覺由不覺即覺無覺。得失兩邊誰論好惡。一切有爲本無造作。
知心不心無病無藥。迷時捨事悟罷非異。本無可取今何用棄。謂有魔興言空象備。
莫滅凡情唯教息意。意無心滅心無行絶。不用證空自然明徹。滅盡生死冥心入理。
開目見相心隨境起。心處無境境處無心。將心滅境彼此由侵。心寂境如不遣不拘。
境隨心滅心隨境無。兩處不生寂靜虚明。菩提影現心水常清。徳性如愚不立親疎。
寵辱不變不擇所居。諸縁頓息一切不憶。永日如夜永夜如日。外似頑 内心虚眞。
對境不動有力大人。無人無見無見常現。通達一切未嘗不 。思惟轉昏汨亂精魂。
將心止動轉止轉奔。萬法無所唯有一門。不入不出非靜非喧。聲聞縁覺智不能論。
實無一物妙智獨存。本際虚沖非心所窮。正覺無覺眞空不空。三世諸佛皆乘此宗。
此宗毫末沙界含容。一切莫顧安心無處。無處安心虚明自露。寂靜不生放曠縱横。
所作無滯去住皆平。慧日寂寂定光明明。照無相苑朗涅槃城。諸縁忘畢詮神定質。
不起法座安眠虚室。樂道恬然優遊眞實。無爲無得依無自出。四等六度同一乘路。
心若不生法無差互。知生無生現前常住。智者方知非言詮悟。



 牛頭の法融禅師は禅門の隆盛を見る、六祖大鑑慧能禅師のそれ以前に当たります。問答往来活発地の花よりも仏の教えはこれをもってして足りるという、実にはっきりした心地と就中親切があります。対句一つをもって足りる、乱暴に云えばたてに読もうが横に読もうがいいんです。人間平らな平地です、聞いた風な禅問答や禅機横溢だのでなく、手つかずの我と我が身心の為に、この心銘はもっともふさわしいんです。初心の人には最善です。ついに参禅に倦む人には端的の品です。どうか一句通じて下さい。ほんとうにこのとおりにあるんです。詞を記憶してもなんにもならんです。心理学なぞ逆立ちしたって及びもない、一三00年以前の心銘です。



心性不生、何須知見、
本無一法、誰論薫錬。
・心性は不性なり、何ぞ須べからく知見を用いんや、本と一法無し、誰か薫錬を論ぜん。

 心不生とはどういうことかというと、心として何か一つしようとする、するとそれを見ている心があると思う、何かする、もうし終わっているのをとやこういう、ではとやこういっているそれはとなる、ちょっと顧みるにいいです。どこまで行ってもそんなふうです。何かあるようなものを漠然と心と呼んでいる。
 それおかしいんですよ。
 何故あるように思い、漠然とした曖昧な自分なんですか。
 そうして心がきれいだ汚いとかいう、あたたかいとかいや私の心はとか、心が広いとか云う。
 何をもってそう云ってるんですか。
 心って一つでしょう。
 では心が心を観察すること不可能。
 心を見るに心なし、これを無心と云うんです。
 わかりますか。
 単純な理屈です。したがいたいていの人が心と呼ぶ、それは間違いです。残像幽霊取り越し苦労ですか。
 心のはしっくれピックアップも不可能事です。それがどういうものか可能になる、そりゃ嘘なんです。幽霊の尻尾に振り回される、つまり一切苦厄の原因です。
 人はあるものには苦しまない、ないものに苦しむんです。

 したがい手付かずなんです、心を知ろうとするに従い迷妄です、知ろうとする自分と知られる自分の二分裂、そんなこと不可能です、にもかかわらず、自分という心を観察し、これをどうこうしようとする、そりゃ間違いです。際限もない、疲れるだけだ。
 ところが仏教についても自分についても、そういう際限もないことをやっているんです。収まりがつかない、これを常識=情識と云うんです。
 何ぞ須からく知見を用いんや、駄目だよって云ってるんです。
 道を求めるのにそのものずばりです。もとこうあるっきりないと云ってるんです。道元禅師普勧坐禅儀道本円通争か修証を仮らんと同じです。これを得た人が云うんです。いきなり持って来るんです。
 知識道徳悟る悟らぬの常識ごとじゃないよ、もと始めっから終わりまでこうあるっきりだよというんです。
 ではこっちもそうやるっきりない。
 只管打坐まるっきりただです、手をつけないんです。

 本と一法なし、誰か薫錬=訓練を論ぜん、世間事道徳宗教思想学問等みな、だからどうすべきだ、ゆえにという、だからノウハウです、身心、心はそんなものにはよらんというんです、取り決めたはしから裏切るよっていうんです、どんなノウハウも邪魔ってことあります。
 もとまっさらを知ればいい。
 たとい何あったろうがまっさらです。露の玉のように濁りを知らず金剛不壊、これが心です=自分です、あなた自身だというのです。 こんな救いはないんです。
 手つかずのものに手をつけない方法、これが仏教です。


往返無端、追尋不見、
一切莫作、明寂自現。
・往返端無く、追尋すれば見えず、一切作る莫ければ、明寂として自ずから現ず

 まず坐ってみるといいです。日常では心のありようが見えません、とやこうと知見を用いるだけです、知見を用いながら迷妄、こんぐらかりコングロマリットです、坐ってみるとそれがわかります。
 呼吸に合せて往き返りしている、往返端なくとどこへもひっかからなきゃいいんです、かすっともかすらない。
 これができないんですよ。
 たいてい妄想まるけです、不生無心にならない、したがい追っかけをやる、追っかけられる、どうしたらいいと省みる、そりゃ滑稽です、省みる自分を追加注文です。
 比較的すっきりした、するとないはずの自分を眺め暮らす、内外があったりする、うまく行ったという、うまく行く行かぬといっている追加注文です。
 どこまで行っても知見を用いるんです。
 追尋すれば見えず、追っかけと追っかけられが同一人だからです。

 さあなんとしようってことですよ。
 一切作るなければ明寂として自ずから現ず、手をつけなければ完全なんです。
 無心です、もと如来として生まれている、付け加えることないんです。
 まるっきりただ。
 ただじゃあただが得られない、これが問題なんです。
 ぶち抜け大死一番、身心脱落大悟徹底と云われる所以です。
 どっかの学者坊主の云うただ坐ってりゃいいなどいうのとまるっきり違う、よくないってこったからの坐禅です、いいってんなら仏教いらんです。
 さあ追尋すれば見えずを確かめて下さい。


前際如空、知処迷宗。
分明照境、随照冥蒙。
・前際空の如く、知処宗に迷う、分明に境を照せば、照するに随い冥蒙。

 前際空の如くというのは、
(神様がある、最後の審判だから、共産主義だから、経済はこうだから、正義の味方、平和いい戦争だめ、人間だから、視聴率は、)
 といってたいてい必ずやっているんでしょう、もとないっていうんです。
 無条件生きの白紙ってことです。
 如くというのは別にあってもかまわんのです、時と場合によりです、囚われない、振り回されない、振り回すなってこと。
 空、まっさらな紙に文字を書く、滞るんでしょう、必要に応じて書き、そうして消えるに任せ、心という無心です、でないと使えない、一00%使える無心、自由であり無限です。
 身心これです。
 だのに神さまだ、これは悪との戦いだ、同じ羽根の鳥やったら、水は方円の器です、せっかくの水を凍らせてしまう、ろくなことがない、世の中騒然です。

 執行猶予中の人が来た、前際です、おでこのあたりたんこぶ、
「おまえは犯罪者だ、しっかり反省して二度と犯さぬようにしろ。」
 というたんこぶです。
 ロボトミーの手術をしたようにかたくなで、そうして自分を責めている、なんという教育か、野蛮な鉄の鎖です。
 自由の分がない、心に反するんです。
 彼はじきに、
「そんなのやりきれん。」
 といってまた犯罪です、刑務所に出たり入ったりの一生を送る、二重人格者になる、説教には抵頭して、その、
「悪い。」
 という本能、じゃなく自然にしたがう。
 人を後ろめたくするっきりの再生教育です。
 前張り教育が問題なんです。

 知処こうあるべきと云ってこれに関わるんです、世間常識事人間みな裁判官というやつです。
 裁判官てそうねえ云ってみりゃ、
「こういう判決を下せばこういう社会が現ずる。」
 という以外意味はないんです。
 良心だの社会性だの、きっと大きにお世話っていうんですか。正義を振りかざしちゃ駄目ってこと知るにいいです。
 そんな権利人間にゃないです。
 思想といい正義といい心はこれを出し入れする器です。
 宗に迷うとは器と中身との本末転倒事です。
 宗教とは迷いですか、狂信者と集団ヒステリーを生む、人間だけが持つ宇宙にも自然にも背反します、よくよく見て下さい、実に人類一00万年の歴史が証明しています。
 一00%信ずる=見る、ただの現実です、信ずるとは=不信てことです。
 人類史というがらくたの堆積。
 ちょっと坐ってごらんなさい、おでこのたんこぶ取り去って、生まれほんらいの心身です、清々っていう思想っていうそういうものぶち破って空です。
 夢にも見ぬ現実です。

 分明に境を照らすという、楽しい作業にも似てたいていそうするんです、するに随い冥蒙、くらい真っ暗です。
 とやこう言い訳してないで、坐ってみりゃいいです。
 うまく行ったと思ったらおかしくなる、こうあるべきだというと背く、期待したとおりにはさっぱりならない、期待通りなったという、ちっともよくないんです、妄想出るなと云えばいよいよ妄想真っ黒け、収集つけようとするにつけ、どうにもならんです。
 ついに手放すんです。とたんにぱあっとなんにもなくなる。
 意識が失せるんではない、念起念滅のままです。
 分明に照らそうとする人がいなくなるんです。
 二分裂が一つになった。
 唯一心です。
 参禅は日常の縮図です、まざまざと見て過ちを糾すんです、一に何によって過つかを知る、境あり照ありがおかしい、嘘だったんです、糾すとは糾そうとするんじゃない、そのまんまにする双方捨てるんです。


一心有滞、諸方普通。
去来自爾、胡假推窮。
・一心滞る有れば、諸法通ぜず、去来自ずから爾たり、胡暇推窮す

 そうです、一つこと離れれば全部きれいさっぱりです。どうしようこうしようという、思想の内容なんでしょう、いいことしいの旗を振って交通整理です、そうじゃない旗を振る人たった一人です。
 習い覚えの知識をもってする、そりゃ人情だけれども、諸法あるように見えて、根本変わればがらっと変わるんです。
 諸法としてまったく消える、すると諸法を掌する。
 強いて云えば行き当りばったりですか。
 唯一心面と向かえば回答です。
「おれはこうだからこうせにゃならん。」
 の反省会はもう一つ別の迷いを付け足すんです。
 これを知る、仏教だけです。

 爾たり文句を云うことないよって、たとい反省会もロボトミイも去来自ずからです、すべてはその通り現実です、どっかで胡か漢かをやる、OXする自分があるんです、本当にOなら納まる、どっちも假物なんです、だから推窮する他ない。
 わかりますかこれ、どこまで行っても自分で自分を縛っている、まずこの自縄自縛を解くんです、ほどけば仏。
 糸の切れた凧です。手の舞い足の踏むところを知らず、赴くところ天地、有頂天の喜びがあります。


生無生相、生照一同。
欲得心浄、無心用功。
・生に生相無く、生照一に同じゆうす、心浄を得んと欲せば、無心の功を用いよ。

 生き甲斐生きざまというんでしょう、思い込みなんですよ、言い訳言い聞かせですか、生きる喜び幸せという、形を取ったらすり抜ける、山のあなたの空遠くという、足下を顧みないんです。
 顧みてこれだという、違うんですよ。
 本当に面白い無我夢中だっていうとき、かえって記憶が欠落するんです。
 自分の全部預けちゃうからです、幼い頃の記憶がないのは、たといそのせいです。
 生に生相なくとは見ることができないんです、見るもの嘘です、 わかりますか、
 九このまり十まりつきてつきおさむ十づつ十を百と知りせば
 良寛さんの歌です、ひいふうみいよう十ずつ十ついて百になったから止めるという、それっきりです。
 一つまりつくそれっきり。
 君なくば千たび百たびつけりとも十づつ十を百と知らじおや
 あなたが死んでしまったらこの世にだれが、
「一つまりつくそれっきり」
 を知るでしょうか、だれも知らないっていう貞心尼の返しです。
 知らない人になって下さいと云いましょうか、ちらとも知る一00%にならないんです。
「まりがつけた! 」
 たとい後から知るんですよ、手応えがあります。
 ただこれ清々ってね。

 心浄というんでしょう、らしいことを想定したら穢れなんです、夢にも見ぬことに向かって参禅して下さい、心浄すっきり空ってことです、世間のいう浄とは月とすっぽんです、自ら体験する他ないです。
 無心の功を用いる他ない。
 ぴったりっていう元の木阿弥、やったあやりました、心身脱落し来たるというんでしょう、師如浄禅師はそうではない、もとこのとおり、これに気がついただけという、脱落せる心身底と、ここにおいてまったく納まる。
 道元禅師の語が美しいからなんていう人は、三尺足下を穿つ、一瞬清濁ない世界です、浄ありゃ穢れあるからの脱却、いっぺんに行くよりないです。


縦横無照、最為微妙。
知法無知、無知知要。
・縦横照らす無きを、最も微妙なりとす、法を知るに知る無く、知る無きをもって知の要となす。

 ほんとうに坐ってごらんなさい、正にこういうことが起こるんです。
 ぴったりと行くというのは縦横照らすなき、本来微妙なんです、バッハやモーツアルトも及びもない、ほんとうに世界全体、宇宙唯一心の実感です。
 らしいという真似事、照がちらともあったら実現しないです。
 もとこのとおりにある、どう云おうがこう云おうがこのものです。
 心意識の有無によらずです。  
 これを得て下さい。
 終わり初物たった一つしかないです。

 法を知るとは記述がいらんのです、水中の水です、もとあるを知る、無知なんですよ、記述不可能です。
 記述によらないってこと知るにいいです、アッハッハこーんな楽なことはない、もとっから自足するんです。
 世間体まったく離れる、即今です。  
 世間=自分の皮袋を脱げってこと、これ仏教。
 他に何かあると思っているうちは、そりゃどうもならんです。
 世間仏教学者ども百万だら云いつのって、なんにもならんのでしょう、うるさったいだけだ、百害あって一利なしを知る、たった一個で足りることを知る。
 無心とは知らないんです。知るなきをもって知の要です。
 達磨さんの不識、仏教の要です。


将心守静、猶未離病。
生死忘懐、即是本性。
・心を将って静を守る、猶を未だ病を離れず、生死忘懐、即ち是れ本性。

 悟ったというとあるいは身心ともに失せた、その辺りをもって標準にする、そうなろうとする、そりゃならないんです。坐禅二限らずです。心をもって静を守る、だからこうあらねばならぬやる、そうはならない、なったと思い込んでも不可なんです。
 禅者である、境地を云い、無門関をやったという、何のためにってそりゃ世間体です、だったらなんにもならんです。
 良心といい清潔といいその反対を云いパロディイをやる、いったいそういう世間体に飽いての出家でしょう、未だなを病を離れず、病気だっていうんです。一般人と狂人の区別はつかないというそのとおりなんです。
 正当な判断という、物差しをあてがうんでしょう、とつぜん物差しが蛇になったりする、あるいは心をもって心を伺う、じきに転覆ってことです。
 届きっこない、ぴったり行かないことを知って、どっかで手放しているのを一般人、生真面目に推窮すると狂人です。

 生死を忘れる根本の回答です、生死という問題に総てが還元されます、どっかでひっかかっている自分です、ひっかかりを取ろうとする手あるかぎり駄目です。
 もと自分という根無草です、そこへとっつかまって死ぬのはいやだ、生きるのは苦しいやっている、根無草宇宙同根、生死というたががはまらないんです。
 根本回答しか知らぬ即是本性です。


至理無詮、非解非纏。
霊通応物、常在目前。
・至理詮無く、解くに非らず纏うに非らず、霊通物に応じて、常に目前に在り。

 理を尽くすにしたがい届かない、極め尽くしたと思ったら、まるっきり違う、別の様相を呈する、ついには不毛の砂漠を見るんです、先哲至理の最良はこれを知る、中途半端が本を書いたり哲学だの云ってるんです。仏教はこれが愚を取らんのです、思想を捨てるんです、至理無詮を知るほんとうの叡智です、追尋すれば見えず、放てば掌に充つるんです。物理学の法則を極めるんではない、もと始めっから法則の中にあるんです、どう転んだってそれを免れること不可能、だったら纏うに非らず解くに非らずです、ただこれを満喫する=手つかず以外にないんです。
 たとい学者師家いや物理学者だって同じです、
「おれは何をやっているんだ。」
 と省みればいいです。
 理論物理学は理論物理学なんです、至理をつくして不毛を知る、すると少しは大人になるっていうことですか。
 いえ何の為に何をと真正面に問えば一つ二つ答えはあります。
 きっとそれが人生の価値です、いったいどんなに嘘であったか、我欲の為の自己の延長であったかということを知る、
「なんという。」
 絶句して初めて人生が始まる。
 赤貧洗うが如き一個です。
 仏の道という皮をかぶってたってしょうがないんです。

 解くに非ず、どんなにこれを知っても届かないんです、纏うに非ず、至りえ帰り来たってと、仏教というノウハウ発展させても本末転倒事。
 そういうこと一切に倦むんですよ。
 なにをやったってなんにもならなかった、菩提樹下のお釈迦さまです、
 刀折れ矢尽きるんです。
 ついに手つかず、すると向こうから答えがやって来るんです、手をつけるという架空の自分が失せる、霊通物に応じて自ずからです、常に目前にあるんです、我と一切有情と悉皆成仏です。


目前無物、無物宛然。
不労智鑑、體自虚玄。
・目前物無く、物無うして宛然、智鑑を労せずして、體自ずから虚玄。

 なんにもないというと白紙状態を思い浮かべるんでしょう、そうじゃないんです、なんにもないとは体自虚玄、自分がないんです、虚玄とは宇宙と一つことになっている微妙です、ものみなあるんです、無物という個々別々です、こっちの都合であるなしを云わない、取捨選択をしない、廓然無聖のありさまを宛然といった、筆舌に尽くしがたいんです。
 これをほんとうに現前しないうちはどうしても鑑がみるんです、たしかにやったやりましたと云って身心脱落し来たるです、これを持ってしまって大悟徹底悟りはとやると、やるに随い悟と未悟になってしまう。
 鑑覚の病と我が師井上義衍老師は云った。その悟は実に確かなものであった、忘我状態が十五分間も続いたという、忘我を出でてさらに不思議であった、我というものまったく無うしてものみなある、はあーっといううちにこれは天下取ったというわけです。
 あっちこっち当たるを幸い、師家の三人も気違いにしたっていうからものすごかったんでしょう。
 説法するのにたまたま飯田トウ陰老師の前座を務め、トウ陰老師なにするものぞと本番の分まで食み出した、
「あまり公案をいっぺんに使うな。」
 という以外トウ陰さんも云うことなかった、そのうちに気づいたそうです、
「自分の欠陥というもの、承知しながらこれに気がつかない。」
 そうして夜討ち朝駆けトウ陰老師のもとへ通った。もう一苦労せにゃならん、ずいぶん長くかかったよと云っていた。脱落せる身心底です。
 お釈迦さまには仏教がなかった、道元禅師にはあったということですか、ありゃあるものにひっかかる。
 世間からほんとうに離れる、どうしてもそういうことです。
 そうです、世間=自分です。


念起念滅、前後無別。
後念不生、前然自滅。
・念起念滅、前後別無し、後念生ぜずんば、前念自ずから滅す

 念起念滅ぽっと出ぽっと消えるんです、心意識のありようです、とっつかまってああでもないこうでもないやる、心意識の運転です、後念消えればとそれやらんきゃいい、するとぽっと出て大事だ命に関わるなどいうことも、ふっと消えてしまうんです。
 脱落身心底の人のありようです、いえすべての人のありようです。
 でもって仏教度一切苦厄の総てなんです。
 思想の内容ではない、いいこともわるいことも、世界平和も殺人もヒューマンも神さまも念起念滅、ぽっと出ぽっと消える。
 わたしの転機は実に心銘のこれでした。
 とても今の人仏教はという、
「大悟徹底するのは容易なこっちゃない、生まれ代わり死に替わり生生世世を尽くして。」
 という、無始劫来貪嗔痴、たとい一枚はがしても一枚重なる、仏を信じてすがるよりない云々、じゃなんの為に坐るのか、坐らなきゃなおさらという、
「そんな無茶苦茶な。」
 と思っていたです。
「そうじゃない。」
 老師が云った、
「無始劫来だろうが妄想観念、そりゃどんないいこともです、ぽっと出ぽっと消えるだけだ、その念起こるところへとっつかまってしなけりゃいい、ひっこぬいた雑草は石の上へ置けです、ただそれっきり。」
 原因結果を究明する必要はない、たとい因果も人為の計る能わず。
 あるとき摂心に妄想が出て困った、ようしこれなんとかしてくれようと思うにつけ、いよいよ頻出する、えいくそってんでもう真っ黒けになってやってたです、四日間不惜身命てなもんだったです、ついに体力の限界、にっちもさっちも行かなくなった、どうでもなれって抛ったんです。とたんにぱあーっとなんにもなくなった。
 まるっきりないんです、押しても引いてもなんにも出ない。
 心意識が失せたんじゃないんです、取り扱う心が失せる、ぽっと出ぽっと消えるそれっきりになったんです。
 するとなんにもない実感です。心一つこと無心です。


三世無物、無心無仏、
衆生無心、依無心出。
・三世無物にして、無心なり無仏なり、衆生無心にして、無心依り出ず。

 輪廻転生もいい信じろ信じない仏教説話もいい、ましてや一神教他の諸宗の荒唐無稽もいい、でもそんなもの着物のようにくるっと脱げるんです。
 これなにほどかの救いだったですか。
 証拠するのに坐中なんもないんです。心という無一物です。宇宙あれば宇宙現じ、からすがかあと鳴けばかあとあるっきりです、三世にわたって無仏です、これを知る仏だけです、手に取った茶碗の中にころっと入っている、星の向こうの重力レンズになっている、信も不信もない、本当の平和でありヒューマンであり、そんなせまっ苦しいもののない、空ともなんとも云われん本来本法性です。
 おぎゃあと生まれた子の目を見てごらんなさい、たいてい宇宙の一片です、如来もと無心、無心とは絶対の信頼です、一片の疑いもないんです、そうしてたとい砂上楼閣、架空の自分ももと無心なんです、疑おうが疑うまいが厳然としてあるんです、だったら無心に返ればいい、他に人生の目的なんぞないです。


分別凡聖、煩悩転盛。
計校乖常、求真背正。
・凡聖を分別すれば、煩悩転たた盛んなり、計校すれば常を乖れ、真を求むれば正に背く。

 世間一般ていうんですか世の中常識に対するこれが回答です、まったくこれ以外ないんすが、妙薬は口に苦しですか、たれかれこれを知る人皆無です。
 これを知り参禅する人になって下さい、ついに洞然として知るんです。
 坐ったらこうあるべきってやると、たちまち反逆です、どんな取り決めにもよらない、だから一00%です、いい坐り方悪い坐り方ってないんです、どっちも一00%です。
 作仏と計ることなかれと云うでしょう、真似事は駄目です、標準を設けて分別凡聖です、すると煩悩転た盛んを知って下さい。まさにそういうこってす。
 標準はもとこっちなんです。
 計校、他の標準の物差しを仮りて推し量る、常こっちの標準が見えないんです、真を求めれば正に背く、求めるもの如何、実にこのように往来する坐禅です。
 これを卒業して下さい、ついに手つかず。
 清濁合せ飲むふうの世間迷妄が手に取るようです、神あれば悪魔あり、新教だの旧教魔女裁判だオリバークロムウエルとか煩悩転た盛んです。いえたとい人みな同じです。三つの子が大笑いするところを洗礼割礼、いやおれとこがいいってやってるんです。
 神との契約という、だからいいという、そりゃ間違いですよ。
 共産主義というカリカチュアを見ればいいです。
 どこまで行っても妥協と折衷案じゃ情けない。
 いいかげん止めて人類も出家って、アッハッハ自分一個でいいんです。


双眠対治、堪然明浄。
不須功巧、守嬰児行。
・対治を双眠すれば、堪然として明浄なり、須べからく功巧を用いず、嬰児の行を守る。

 対峙を双眠す、これが坐禅の要訣です、うまく行けといって操縦する相手と操縦するこっちがいっぺんに眠る、止むんです。すると堪然として明浄ぱあっとなんにもなくなっちゃう。
 不思議=思議にあずからず、です。
 最後の審判を待ってるんじゃないです、そんなんじゃないたった今です、たとい自然法則は即今即決ですよ、恨みつらみ今に見ていろぼくだってというのは浪花節の世界です。
 取り扱っている自分がある、取り扱わなければない。
 始めからしまいまで同じです。
 うまく行かないのは自分がそうしているからです。
 いいですか参禅の人肝に銘じて下さい。向こうにあるんじゃないんです、いつだって大悟徹底=同じなんですよ。
 それを必ず功巧を用いるんです、無為の工夫ができない。
 手をつけないそれだけを、でもたいてい人生そのものを捨てるんです。
 人類史地球宇宙一切合財天秤にかけて、
「そんなものいらん。」
 といって、わずかに自分一個を捨てるんです。
 もと砂上楼閣です。捨てて惜しいものなんかない。
 堪然として明浄です。


惺惺了知、見網転弥。
寂寂不見、暗室不移。
惺惺として了知すれば、見網転たた弥まねし、寂寂として不見なれば、暗室移らず

 だから見る悟ったということあって、かつて不明だったものが惺惺了知ってことあります、つうかあこうだからこうだ、確かに誤ってはいないようで天地懸絶です、見網転た弥ねし、意図して見るどう見たってそりゃ網です、いくら普したって隙だらけ。
 大悟十八ぺん小悟その数を知らず見網転弥です、ついに手放すんです、
「おれは禅僧だ海内隠れもなき。」
 をさよならするんです、網が解け去ってぜんたい宇宙です。
 惺明らかです、たしかに全体宇宙も惺惺です。
 どこが違う。
 そりゃ手に入れりゃ解かるんです、なんていうおれは児戯に類することをしていたんだ、
「そこら歩いてるひよっこにも劣る。」
 という通身皆懺悔にも似て、いっぺんに貧乏になるんです。
 もとっこ元の木阿弥を、かえってぜんたいが了知するんです。
 こっちから見る必要がなんにもない、こっちってぜんたい。
 仏のなんたるかを知るんです。
 暗室移らずと云い、たしかに夜昼ない実際です、なにがどうなったってことじゃない、ただこうあるんです。
 でも暗室移らずを一歩抜けて、ただの夜昼です、春夏秋冬のこうあるっきりです。
 それ世間一般と同じたって月とすっぽんてことあります。
 雪舟はこれを知る数少ない画家です、これを見るにいいです。富岡ホワイトの富岡画伯が雪舟の山水長巻をまねて、ヘリコプターで空中から鳥瞰するなど、なんという不都合。
 身心もとなし、わずかに無心の風景なんです。
 世の人惺惺了知です、いたずらに騒がしいだけなんです。本当本来じゃなくって、あっちとこっち結びつけるだけですよ、どこまで行っても不毛、収まり切らんのです。


惺惺無妄、寂寂明瞭。
万象常真、森羅一相。
・惺惺として妄無くんば、寂寂として明瞭、万象の常に真たり、森羅一相なり。

 惺惺としてって前項と同じだから面白い、でもまったく違うんですよ、惺惺了知は目があるんです、どっか眼華っていうんですか、ふりかえりみるんです、惺惺無妄は目がない、まるっきりこうあるっきりです。
 そうですものみなこうあるっきりです。
 こうなって下さい。
 万象常真森羅一相。
 舌頭たたわわ嬰児の行を守るんです、他いらない。


去来坐立、一切莫執。
決定無方、誰為出入。
・去来坐立、一切執無く、決定無法、誰か為に出入す。

 そうしてまるっきり自由自在です、去る来る立つ坐る、立ち居振るまいなにやったって、けい礙障りがない、滞らないんです、これだめあれいいって、その時々にこうあるっきりです、決定無法です、行きあたりばったり随所に主です、どこ行ったって真っ正面、で誰がこうやってるんだって、誰ってものない、知らないんです。
 わっはっはこーんな楽ちんないですよ。
 もう何億円やるからったって到底替えがたいです。
 一銭もいらんです、もとこうできあがってている。
 いいですか、もとないものには安住できないんです。
 決定の説は真僧を表す、決定無法でなきゃ納まらんのです。まるっきり手放す=決定は他の諸宗の曖昧、無理強いじゃないんです。
 群生の長しなえにこの中に使用するんです、各各の方面に知覚を残さず、各各の知覚に方面露われずです。
 言い種じゃないところを見て下さい。


無合無散、不遅不疾。
明寂自然、不可言及。
・合無く散無く、遅からず疾からず、明寂自然にして、言の及ぶ可くにあらず。

 これただこうあるってことです、寂というのは確かに妄想趣味の人声色の奴卑と馳走する面白さっていうんですか、それと比べると寂しいなんにもないっていうのが、まず真っ先の感想です。
 彼岸に渡るんです、こっちの持ち物此岸の取りえなんにもなくなる。
 そりゃかなわんやるんです。
 ついに思い切って手放す、死ぬると同じです。すると彼岸がこっち岸です、寂滅が一00%は寂滅じゃないんです、生き生き人間ですよ、モアイは太陽の子ってあれ目と赤い帽子つけて、本当に生き生き、アーケイックスマイルのアポローン神も同じです、燃えるが如く溌剌です。
 ほんとうですよ、明寂自然てそりゃ自然そのもの、不可言及って全体ってこってす。
 わずかに妄想まるけ、取扱い四の五のが失せる、寂滅するんです。 赤ん坊みたいほっぺたして、山河大地たとい涙せざるはなし。
 死んだらどこへ行くってたった今と変わらないんです。


心無異心、不断貪淫。
性空自離、任運浮沈。
・心に異心無く、貪淫を断ぜず、性空自ずから離れず、任運に浮沈す。

 心に異心なく、心一つことです、貪淫はよくない駄目やったって、貪淫失せないことを知る、貪と云い淫という、だから悪いたってそんなの付け焼き刃です、世間あらゆる感情がある、それそのまんまです。だからどうだって貪淫は貪淫。性自分というこのものと空宇宙という全体と、二つない同一物だというんです。よくよく郷ってふっきれていてもなかなかってことありますよ。謹んで坐って下さい、常に恒に性空自ずから離れず、そうしてもって任運に浮沈すなんです。
 糸の切れた凧向かうところ天地です、世間いう運に任せて浮沈とは似ているようでまるっきり別といったほうがいいです。
 きれいさっぱりなんですよ。
 浮き世浮きぬ沈みぬじゃないんです、たとい浮沈もまったく同じ、後先がないんです。
 貪淫を断ぜずといってえせ師家ども、我欲に任せてしたい放題する、一休の真似事みたいの、これ違うです、ふっきれてないんです。どっかで自分を操っているんです、そりゃけだものです。
 けだものは決してそういうことしないです。
 こんなの死刑ですよ。


非清非濁、非浅非深。
本来非古、見在非今。
・清に非ず濁に非ず、浅に非ず深に非ず、本来古に非ず、見在今に非ず。

 それだからよくこれを保任せよといって、たしかに性空自ずから離れずです。
 でも人間同じなんですよ、悟後の修行なら毎日坐って下さい。
 妄想まるけ同じです、なんだかんだあって良寛さんなつかしいっきりです、死んだら楽になるなあって思うです。
 でも坐りゃ空です。
 清に非ず濁に非ずって坐って下さい、ちょっとこうまずいってひっかからないんです、どうあったろうが次の瞬間納まる。すべてが自ずからを知る。浅に非ず深に非ずって坐って下さい、なにね自分という仮がちらっとあっただけです。
 そうして総てをぶっつけるにいいです。
 本来古に非ず、見在今に非ずと回答です、筆舌に尽くせないんです、もはや人生も世界宇宙もない、答えそのものなんです。


見在無住、見在本心。
本来不存、本来即今。
・見在住する無く、見在本心、本来存せず、本来即今。

 こうあるのが正に仏教なんです、私ということです、確かめなくっていいんです、他にないんでしょう、他必ずだからだっての世界です、手続きまるっきりいらんのです。
 人間としてはどうのとか役場の登録いらない。
 六祖大鑑慧能禅師柴を担うて往来のついで、応無処住、而生其心と聞いて忽然大悟。見ている自分がない、自分を知ろうとしない、知ろうとする自分がない、本来即今万物の姿です。
 おうむしょじゅうにいしょうごうしん。
 住む処無うしてその心生まると知ったところでどうもならんです。 応無処住而生其心ぴったり行く他にない。
 六祖禅師は五百生の大善知識と云われる。
 いえだれだってしまい六祖禅師です。
 どうかこれを得て下さい。もとまっただ中。


菩提本有、不須用守。
煩悩本無、不須用除。
・菩提本有、須からく守ることを用いざれ、煩悩本と無し、須からく除くことを用いざれ。

 だから初心の人にも古参の人にも同じです、なんでもありありだっていうんです。どういうことをしようがしまいがすべて、妄想が悪いすっきりがいい、いい気分だ苦しい、だったらどうするとかすべて手放す。じゃなんでもいいんだといってほったらかす、ほったらかそうがそのものずばり、なんにもならないって云う、なんにもならないはいそのとおり。
 まっしぐらにただもう坐ってりゃいい、一生懸命姿勢よく。
 ご機嫌で坐ってりゃいい、苦しいたって退屈だって、そのうち少しはよくなる。
 そうですねえ、あんまり目くじら立てないんです、楽に坐る方法ですか、よくなかったら面と向かうんです、無茶苦茶をやる、坐禅なんか嫌いだ、禅天魔だといって坐る、超能力やる、アッハッハなんでもありありです。
 わかりますか、ついにはそう云っている自分が失せる。
 そうしてなんにもなくなってごらんなさい。
 菩提本有、守を用いず、除くを用いず、煩悩そのまんま。
 そりゃなんか想像を逞しくしてりゃ坐禅にならんです。
 そうじゃなくってこのまんま、宇宙そのものっていうか、自分としてとやこうがないんです。
 自分としてとやこうを外れるんです。
 そうですねえ、世間のだれよりもカスみたいで、なんの取り柄もなく、いつ死んだっていいし、他愛ないことは雪降りゃ雪、木が芽吹けば芽吹きっきりになる。
 でもいざったらだれにも負けんです。
 知らぬ間に相手がちぢんでる、にっこりってさこんなに優しいのに。
 わかりますか、自分として守る必要もなければ、除く必要もない、そりゃ強いんです。
 心というもののありようです。
 煩悩だから捨てる、いいものないいから取る、これが本有だとか、そういう弱いこと、心は云わないんです。
 たといなに云ったって、取捨選択も甲斐なし、心というメカニックそのもの。


霊知自照、万法帰如。
無帰無受、絶観忘守。
・霊知して自ずから照し、万法に帰如す、帰する無く受くる無く、観を絶し守を忘る。

 坐禅は自足する手段です、他のなにものをも仮らんです。泉の水溢れて霊知する如く、海中の水のように万法に帰依するんです。他にないんです、無条件生きなんです、実感としては多種多様というか一瞬そのもの、なつかしいうれしいなんにもない宇宙の王様、はかないとかみっともないとかそりゃ忘我の周辺です、でもたいてい時の立つのを忘れて、身を預けっぱなしです。
 おのれがないんです、これが微妙比較を絶するんです。
 自足というのは世界宇宙人類歴史宗教一般なーんにもいらないってことです。これが日常です。
 死ぬまでに一回でいいです、ちらとも知って下さい。
 無帰無受、だからこうなるしない、たとい活字世流たってぬかに釘、ほんとうに標準そのものです、もとそう生まれついているんです、まったく困らない。観を絶し守を忘れって、日々そういうことです、観察してだからどうだする人日々に遅れっぱなし。


四徳不生、三身本有。
六根対境、分別不識。
・四徳不生にして、三身本有たり、六根境に対して、分別を識らず。

 四徳というと何が四つかわしは知らんです、でたらめがきです。受想行識の四つについて理想を云えばって、面白くもない。世間謙譲の美徳恩愛を忘れず、義によく情深くと四つに代表させる、徳あるは誉むべし徳無きは愍れむべし、徳を積み云々ではない、もとあるところを長長出させる他なく、物は一長一短です。
 無理したって人まねしたってしょうがないです。
 意趣あるってこってすよ、隠すよりは露れる。
 くせをどうしたらいい、自分の悪性をなんとしようという、じゃそのまんまやるっきりないってことです、人に悪い感じを与えるのは、くせや性質でなく、我欲自我ひとりよがりです。
 よこしまです、ないはずの自分を握り締める。
 不生を知れば終わる。
 自分なければ人が寄って来る。
 三身本有という、過現未の三、前世今世来世三界の三、すべて本有もと有り一瞬一瞬てことです。
 屁ひって尻つぼめたって追いつかない。
 しくじろうがなにしようが100%を知る。だって他ないんです。 物は自分の価値判断によらんです。
 六根清浄という、もと清浄です、信じられぬほど清浄はもとないからです。無眼耳鼻舌身意無色声香味触法ないっていうんですよ。
 生まれたての赤ん坊はよく知っています。耳で聞く目で見るがない、知らないんですよ、目はどこにあって目で見る、見られるものと見ているこっちの区別、見るということさえ知らない。
 経験と後念の知識によって記憶するんです、そうして使う、へんでしょうちゃんと使われているのへ、有眼耳鼻舌身意です、へんだからおかしくなるんですよ。
 心経にあるんでしょう、
 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。はんにゃはらみったパーラミーター彼岸にわたるです。
 後念の知識をもって有眼耳鼻舌身意有る自分するのを、すっかり手放してごらん、此岸から彼岸へっていうんです。観自在菩薩まっさらな赤ん坊のように、なんのとらわれもなく見てごらん、彼岸にわたりきる、もとの木阿弥無眼耳鼻舌身意に帰ってごらん、すべての苦しみ厄介ごとは五蘊です、ぜんぶ自分という思い込みこんぐらかりコングロマリットから来ていたと知って、せいせい無心です。解決済みなんです。


一心無妄、万縁調直。
心性本斉、同居不携。
・一心妄無ければ、万縁調直なり、心性本と斉うて、同居して携えず

 一心とは心というもと一つなんです、どうやったろうが一つなのに、見ている心と見られる心ですか、もうないものをとっつかまって、だからどうだやるんでしょう、あのときこうしてりゃとか、いや自分はとか=インテグラ心即ち自分てやつです。
 複雑怪奇妄想百般ノイローゼ心身症といって、単純な公式なんです。
 どこまで行っても一は一、一は一を知ったとたんゼロになるっていうんです。
 一切事において解決済みです。万縁調直です。
 これ一般人もおおかた仏教学者らしくの坊主ども知らんです、いたずらに煩瑣、仏教とか説教とかいう馬鹿に付ける薬やってます。
 妄に妄を重ねる、どうにもならんです。
 そうではないんです、心性本斉を知るには、一個この一心に知る他ないです。
 これを知る人の集団を一千羅漢五百大羅漢です、どんな意見も思想も習慣も人種の別もいとわないんです、人本来の器です、心性だけのつきあいです、同居して携えず、いろんなことやって楽しく和気堂に満つ、真の平和へのこれが祈願です。人類もやっと地球のお仲間入り。
 そうですよ天から与えられた頭脳です、信心だの思想判断の能をやっと卒業できる、我が物になしえるんです。
 ずっとまあそれに振り回されの歴史。


無生順物、随所幽棲。
覚由不覚、即覚無覚。
・無生は物に順うて、随所に幽棲す。覚は不覚による、即ち覚は無覚なり。

 無心心がない、無生こっちから先しないんです、物に従いあるんですよ、これどうしたって無心を知る、いっぺんぶち抜かんとわからんです、有性とは判断基準がある、お仕着せの是非善悪です、だからせっかく円やかな廓然無聖なんでしょう、個々別々があるのに、こっち先とやこうです、すると荒らっぽい、喧嘩の種しか作らないんです、同じ羽根の鳥以外知らない、なれあい社会付和雷同です、つまらんです。
 そうじゃないんです、物に従いあるから随所に幽棲す、実に親切なつかしいんです、いいなあって有頂天です、有頂天に覚えはないんです、するととんでもない日常です、とんでもないってだれよりも平静、他なし。即覚無覚。
 観念知識有性のお仕着せを脱ぐ。
 ただじゃあただにならないんです。一はどこまで行っても一、一は一と知ったとたんOです。
 命に替えてもこれを得る、仏教者の唯一取るべき道です。
 そうなんですよ、でないとなんにもならんです、どこまで行っても一にならない、妄に妄を重ねるんです。


得失両辺、誰論好悪。
一切有為、本無造作。
・得失は両辺なり、誰か好悪を論ぜん、一切為に有り、本と造作無し。

 本来心のありようを知ると、世間取捨選択の煩瑣が丸見えです、
「なんてまあいやはや。」
 ってなふうの、どうしようもない皮相な目論見です。
 良寛さんが子供と付き合うのがわかります。というと是非善悪の人、子供と遊ぶというなにがなし作って、だからどうだやる、醜いです、子供僧堂命がけってぐらいに知ればいいです。
「良寛さんあ」
 という遊びがあった。良寛和尚あるとき路上販売の人だかりに首を突っ込んだ、物売りが突然大声を上げた、うわっと良寛さんさば折りになった。それが面白いというので、子供らよったくって、
「良寛さんあ。」
 という、たんびに反っくり返ってしまい地べたへ倒れ込む。
「おれも年だであいつはかなわん、なんとか云って止めさせてくれ。 人に云った、
「うんなら自分で云やいいじゃないか。」
 と云う。良寛さん無心です、だれもちょっと坐って無心、自他の垣根が外れるに従い、みしっという音にもうわっと全身反応です。
 物理現象といったらいいんですか、だから子供が面白がるんです。 総じて笑いを取ろうなんてのないんですよ、子供と遊ぶのはいいから、楽しいからっていう微塵もないんです。
 一切有為、本無造作そのものです。
 僧たるもの一人不可というんです、作入叢林です、僧堂の一員としてある。
 永平清規百丈清規を見て下さい。
 自由自在と勝手気儘は違うんです。
 たとい彼の歌だって今様自堕落じゃない、それにしても対大古法が子供相手とは凄ざまじい、悟後の修行をこんなふうのはないです、なにするかまったくわからん子供連中相手に、時の移るのを忘れる。 世間相手に命がけの大芝居一休禅師は双璧。


知心不心、無病無薬、
迷時捨事、悟罷非異。
・心を知る心なく、病無ければ薬無し、迷える時は捨てる事をし、悟ればすなわち非異を罷れる。

 心に二心ありと云います、従前の心と本来心と。どのみち二つないんですが、どうしても念起念滅するところをとっつかまって、ああでもないこうでもないやる、もはやないはずのものがよって起こるんです、心もて心を知る二人三脚です。心を知る心なしを知る、これを仏道といいます。
 なぜに仏道かというと、心病が失せるんです。
 心病とはないものを扱うから起こるんです。人はあるものには悩まない、ないものに悩むんです。
 取り越し苦労余計な斟酌。
 どっちもどうにもならぬ自分です、自分という天然自然ですよ、そいつを捕まえようという、そうはいかない、いかなけりゃあって七転八倒。 
 馬鹿につける薬です、利口が馬鹿なことやってるんです。
 摂心提唱にこっちの云うこと覚えて、なんのかの云う人います。
 そうじゃあないんです、聞くはしから忘れりゃいい、同じこと何遍だって聞きゃいいです、ものは身につくと忘れるんです、座右の銘といって携えもっている、無理無体です、嘘っことなんですよ。
 忘れていいものにしかいいものないんです。
 これを病無ければ薬無しっていうんです。
 アッハッハものの解決って他にはない、初めっから解決済みを知るんです。
 だから迷妄の人は捨てようとする、悟って見れば非物異物ないんです。
 だって捨てろって云うではないかってね、そうなんですよ捨てる対象じゃない、捨てる惜しいといっている張本人を捨てるんです、手放す。
 異物だといって排除するものがいない、世間まっただ中です。
 宇宙唯一心に取るも取らぬもないんです。
 大死一番ていうんですよ、そうしてもって仏教はって振りかざさない。
 そんなものないのが仏教です。無病無薬。
 捨てるものなけりゃ取るものないです。


本無可取、今何用棄。
謂有魔興、言空形備。   
・本と取るべき無し、今何の棄つる用あらん、有を謂えば魔興り、空を言えば形備わる。

 もと一法の取るべきなし、捨つるべきなし、これ自然というか地球宇宙一切です、人間さまの勝手で取る捨てるやっている、取ったって捨てたって自然破壊の他なんにもないです、大都会という癌です、他生物一切抹殺して結果ただもう人間の不幸とか、牧歌的という牛や羊の牧場って、そうねえそれどうにも面白くないんです。
 人間の心についても=そっくり外と同じってことないですか、こうあるべきといっては牧師と羊みたい、犬を使って追い立てるふう、天皇陛下万歳と行って戦争にもって行ったり、敗戦になるとその反対なんでも反対です、結果ろくなことにならんです。正義の戦争だなんて、人の国皆殺しにして平気でしたり、有を謂えば魔起こり、宗教という集団ヒステリー、イデオロギーという平均化っていうんですか、自由に口も聞けないんです。こういうこと自分はどうかと云うんです。必ず何かやっている、有るっていうんです、自分も困るしはた迷惑です。
 空を云えば形備う、知らぬまに日本人はこれやってます、空ということがどっか身についているんです、ヨーロッパ人にはないってことないんですが、無明の国の弦楽四重奏ってない、一本調子横一線です、どっかかたくなでいじめ社会。
 空もとなしです、もういっぺん確かめてみるにいいです、空だから形するんじゃない、空=無心だからなんでもありなんです、人知を100%活かす方法です。


莫滅凡情、唯教息意。
意無心滅、心無行絶。
・凡情を滅する莫れ、唯息意せしむ、意心を滅する無く、心行を絶する無し。

 凡情を滅するなく、ただ息意せしむ、おれの腹は東海道魚屋も通れば殿様も行く、一休さん不殺生戒魚食うなと云われて、そんなふうに答えた。
 心にたがはめたっていびつになるっきり、なんでも通るのを通るまんまです、これができない、必ずいびつの是非善悪やるんです。
 どこの親もたいてい教育者もろくな教育せんです。
 三つまでに子供は決まるという、言葉によらないしつけのない教育が正解です、できないなんてことない。
 むしろ子供の方が大人です、見習うべきはこっちです。しかも親は絶対の権威です。あるときは後ろから歩き、あるときは先に歩く。たったそれだけのことてす。
 そりゃ親が開けてないと不可能。
 かたくなな親にかたくなな子供。
 親そっくりができるっきり、でなきゃたいてい失敗作。
 いつの時代もまあそういうことには違いなかったですが、向後何十年ですか、たいへんなことになる。ゲームという人為を離れる、自然に接するんです。野山に遊ぶってこと、野山のノウハウってぜんぜん別個です、危険があります、だれも保障せんですよ、子供らっきりでです、そういうことあれば親のかたくな=観念知識を多少とも免れるんですが。
 教育=観念知識こりゃ救いがないです。
 もしや先生っていうのは人間のうちのもっとも屑ですか。
 アッハッハ坊主程ではないですがね。
 坊主ってお寺に生まれたから人に説教って、これ人格破壊です、たいてい人間の格好してないです、法を説くには法を知らねばっていう22が4を忘れている、欠陥車です。
 法を知る時には命がけです、常識ごとじゃないんです。
 意心を滅するなく、心行を絶するなくとは、おいそれと手に入らんです。
 学者学理を尽くそうが、人世故に長けようがたとい一00万年生きようが無理です。
 よしあしの中を流るる清水かな、清濁よしあしの彼岸なんです。
 これを知るたった一つの方法です、それが仏教お釈迦さま菩提樹下明星一見の事です。
 今はそんなこと云わない、悟りなんてなかったんだ、いや妄想世迷いごとまっただ中でいいんだという、断じてよくないです。ついに世の中がらくたです、ほんの少しでもこれを立て直そうには、どえらい時間と労力がいります。
 みんな困っているのに自浄作用がない。
 ほんとうのノウハウ肝心要がない。
 仏教地に墜ちたせいです。


不用証空、自然明徹。
滅尽生死、冥心入理。
・空を証するを用いざれば、自然に明徹す、生死を滅尽して、冥心理に入る。

 坐禅するからには空を証したいんでしょう。そのための不惜身命がある。これどうしたってやっぱり尽くしてみる、尽くし切るってことてす。中途半端じゃト書き能書きばっかりです。たとい是としようが次には不是です。さんざん繰り返しが、どうにもならんお手上げというんで、自然明徹です。
 もとのありようが現前するんです。
 生死という自分流、思い込み取り決めから開放されて、心冥うして理に入るんです。心という見えないものです、だから本来本当なんです、作用するそれっきり、後先ないんです、追っかけ追っかけられの、自縄自縛を止める、顧みない。
 証明する必要がないから止まる。
 生死を滅尽す、面と向かい合うんです。ある人自分は臆病で困るという。臆病ってどこにある、あったら出してみろと云はれる。三日参究して、ついに臆病というどこにもなかったというんです。しかり我汝を救いえたり、臆病に真っ正面向く、するとないんです。 証明する必要なんて初めからなかったんです。
 そうですもとこうあるっきり。


開目見相、心随境起。
心虚無境、境処無心。
 目を開いて相を見る、心は境に随い起こる。心虚にして境無くんば、境処に心無し。

 どうしてもしかしこれをやる、一所懸命坐っている、ちらとも見る、尽くすに従いってことあります。
 鐘の音にがさっとこうなったっきり、動けなかった、身心消え失せた、大見性だ。電車に乗ろうとして乗れなかった、停止する発車するその動きになっていた。酒を飲んでいる人を見ているうちにこっちが徳利を持って飲んでいる。経行の対い相手が自分だった。向こうとこっちがわからない。
 しばらく坐っているとこういうことあります。
 見性だ悟ったという、これなくんばそりゃ悟りには遠いんですが、こりゃただこういうことなんです。
 たしかに自分という架空を免れる、宇宙唯一心です、もとこうあるべきと知る、だからっていうことないんです。
 それがどういうものかはっきりさせたいっていう、開目見相です、境地というんでしょう、だからという境に従い心起こるんです。
 どっか尽さぬ感じが残る、あの時はとか深浅をいうんです。
 いいですかこれをなんとかする、面と向き合うんです、むしろここから仏教ですよ、初心に帰るにいいです。
「なんのためにおれは仏教を。」
 と我と我が身心に聞くんです。
 境地を得る為じゃないんです、自分をひけらかすためでもない、たった今死んだらどうなる、ゼニが欲しい、酒池肉林をしてみたいだっていいです、
「どうしたらいいんだ。」
 通身を挙げて聞いてごらんなさい、世のため人のためではない、たったもうこの一身です。
 答えが返って来ますよ。
 どう返るったって返事千差万別一瞬違うたって答え一つ。
 自分がないんです。
 虚心です。
 実に初めて虚心を知る、たった今死んだって文句云わんです。見返り十分てことあります、人の一生どころかその百倍も生きてます。身も蓋もないんです。
 そりゃもう境地だの仏じゃない、他人見ればほんと仏。です。


将心滅境、彼此由侵。
心寂境如、不随不拘。
・心を将って境を滅すれば、彼此由り侵す、心寂として境に如たり、随わず拘らず。

 心をもって境を滅する、そうではないこうだとやるんです。仏教もとなし、三世の諸仏知らず、狐狸の類じゃないからといって、狐狸をやっている。つまりそうですねえ記述せにゃ納まらんていうんですか、人に聞いて貰いたいんです、我こそはっていう狐です。
 もっとも仏教仏の教えです、一人っきり、死ぬまで一人ってことないです。自分がないすべてがあるんです、すべてが為人の所、真の親切です。そうせずにはいられない、でもそれ自分なくなってこそです。
 手前味噌でなくなったやったって、なくならない、彼此より侵す、従いあっちこっちお釣りが来るんです、境をもって心を滅するより裏表増しだったって、手前勝手変わらんです。
 自救不了です。
 どうか自分を救って下さい。
 趙州和尚因みに僧問う、狗子に還って仏性ありや亦無しや。州云く無。
 よく知られているこれ、臨済無字の公案に初心の人に手に入れて来いという、そりゃ手に入れたらおしまいです、仏教卒業事。それをまたいじくりまわしたりしないんです、記述です、ひけらかす為のねりにねっている、馬鹿につける薬なんです。
 犬に仏性があるかないかっていう、この僧一筋縄では行かない、よくよく弁えている、有といっても不可無と云っても不可。
 これわかりますか心をもって境を滅する底の人。
 彼此より侵すどっかおかしいんです、自分でも知っていてどうにもならない、だから問答ふっかけ切った貼ったやるんです、自足しない納まり切らない。
 趙州云く無。
「むう。」
 といってそれっきりんなっちゃう、棒っきれみたいに証拠する、なんにもない、この棒きれ宇宙全体です、彼此がない、相手ちゃーんと行ったかどうかっていうフォロウがないです、あなたがフォロウです。
 州云く有。
 というのもあります。


境随心滅、心随境無。
両処不生、寂静虚明。
・境は心に随い滅し、心は境に随うて無し、両処不生なれば、寂静にして虚明なり。

 ものがありという、哲学上の有りにしたってそりゃ同じこってす。我意です、無いと云ったって取捨選択です。わずかに揀択あれば、ものみなあるんです。迷故三界城悟故十方空、自縄自縛の縄です。
 一応にも二応にもこれを離れる、
 趙州和尚因みに僧問う、如何なるか是れ道、州云く、道は籬の外に在り。僧云く、我が問うは彼此の道に非ず、是れ大道なり。州云く、大道長安に通ず。
 道というんでしょう、心あり境在りの世界です、どうしても立派なものが欲しい、そりゃ人情です、必死になって仏教について求めるんです。
 そうして大趙州にぶっつける、如何なるか是れ道。
 垣根の向こうにあるよ。
 なにいおれの問うているのはそんな道じゃない、大道だ。
 大道長安に通ず。
 そりゃ解説すりゃおまえさんという、自他の垣根越えりゃそれ道だよって、見りゃほこりっぽいアスファルトの道。
「そうか。」
 といって忽念大悟です。
 なんにもない、鬱陶しいと思っていた架空の籬外れて、破れほうけていきなり玉露宙に浮くんです。
 なんというせいせい。
 それが行かない、
 心境のイメージングのまんまです。
 大道長安、すべての道はローマに通ずっていう、また観念知識ですか。
 そうじゃない、境随心滅心随境無、言語に絶するんです、ただの風景ですよ、そう云うとお為学者とからしい坊主悦に入るけど、その風景に自分がないんです。
 仏足石ってあるでしょう、如来の足形です。
 その上にたった今も如来が立っているんです。
 そうしてあなたも立つことができる。
 ただの風景があるんですよ。
 色即是空の実際です。
 あなたというなんにもないんです。こんな完全無欠の仏像ってない。
 両所不生なれば、寂浄にして虚明です。


菩提影現、心水常清。
徳性如愚、不立親疎。
・菩提の影現じて、心水常に清く、徳性愚の如く、親疎を立せず。

 菩薩清涼の月は、畢竟空に遊ぶ、衆生の心水清ければ菩提の影中に現ず。
 ないから清いんです。
 これを一般の人知らないです、清濁ということを空想する、夢見るんです、清いというときそりゃ汚い、穢れなんです。
 ここはっきりしなきゃそれ話にならん。
 清いのいらない、汚いでいい、悪の芸術だなんとか絵描きだやっている、それまるっきり関係がないんです。
 有心じゃない無心だからいつだって可能です。
 時代や流行によらない。
 わたしことで申し訳ないですが、出家したのは突然大好きだったモーツアルトが聞こえなくなった。
 そりゃもうこれっきりないと思っていたのに、原爆みたいに崩壊しちまった、あんなに清であったのに、命の源だったのに、無音のものであったのに、それが泥壁漆喰に青んぶくれの虫の卵のように。 死のうと思ったが、まだ生きた覚えもないっていう、そうか東洋の手段がある、禅宗だといって出家した。
 まあ親不孝はた迷惑。
 断じて許し難いです。今だって許し難いです。
 とやこういきさつはあった、幸い正師を得たんです、わたしのようなどうしようもなしがです、これもう前世の因縁以外ないです。
 そうして参じたです。
 一から十まで聞いてしかもそう、たんびに悟った、モーツアルトと西欧思想ですか、そういう雑念相携え知識です、かつてわたしが大事な財産、そいつを出て来るたんび始末した、
「そんなことせんたっていいんです。」
 師は云ったがどうしてもそうなる、只管打坐の俎板に乗せる、ぎりぎりです。二、三年やってたらなんにも出なくなった、押しても引いてもこそっともしない。
 あるとき師に云った、
「このごろは見るもの聞くもの、清々ともなんとも云いようにないー。」
 みなまで云わせずに師、
「それはまだ清らかに見ようという心が残っている。」
 と云った。
 はあっと気がついたです、
(わしはまだ出家しとらん。)
 頭を剃って墨染めを来て、大騒ぎのらしいっていう大悟徹底です、その狙いはたとい、
「ものを清らかに見ようという。」
 東京が駄目なら大阪があるさ。
 そうかというんです、根本間違い、すると清らかであったものみなが遠のく、淋しい、気が遠くなるようだった、おのれというそれと決別。
 その年の臘八摂心三日めかに気がついたです。
 あたかも降りつもった雪が暖気に解ける、大屋根を無がれ落ちる、「ぐわーっ。」
 っていうんです、清らかともなんとも云いようがない、こっちも流れ落ちるこれ、言い種同じだが月とすっぽんです。
 千万倍っていっときましょうか。
 徳性愚の如く、親疎を立せずの生活が始まる。
 でもそいつがそうは行かなかったんだから、馬鹿につける薬。
 いえたいていの人落着するです。


寵辱不変、不択所居。
諸縁頓息、一切不憶。
・寵辱変わらず、所居を択ばず、諸縁頓息し、一切憶はず。

 出家剃髪の偈に、流転三界中恩愛不能断、棄恩入無為真実報恩者とあります。恩愛を棄てることこれ初めなり、世の中恩愛の他ない、愛すればこそといって、それ妄想です、とらわれといったらいいか。
 今ここにケイ山禅師の伝光祿第四うばきくた尊者の項があります、汝心の出家か身の出家かと問はれて、我身の出家なりと答える、諸仏の妙法豈に身心に拘らんや、忽然大悟です。ケイ山禅師提唱にこうあります。ちょっと長いですが引用します。
 身出家すといふは、恩愛をすて家郷をはなれて、髪をそり衣をそめ、奴卑をたくはへず、比丘となり、比丘尼となり、十二時中弁道し来たる。ゆえに時としてむなしく過ごすことなふして、ほか所願なし、ゆえに生をもよろこばず、死をもおそれず、心如秋月咬潔、眼如明鏡無窮。心を求めず、性をのぞまず、聖諦なほなさず、いはんや世執をや。かくの如くし来たりて、凡夫地にもとどまらず、賢聖位にもかかはらず。うたた無心道人たり。これすなはち身出家なり。
 いはゆる心出家といふは、髪をそらず衣をそめず。たとひ在家にすみ、塵労にありといへども蓮の泥にそまず、玉のちりをうけざるがごとし、たとひ因縁ありて妻子ありとも、芥のごとく塵の如く覚して、一念も愛心なく、月の空裡にかかるがごとく、玉の盤上に走るに似て、 市中にして閙者をみ、三界の中にして劫外をあきらめ、煩悩を断除するも病なりとしり、真如に趣向するも邪なりとあきらむ。涅槃生死これ空華なり、菩提煩悩ともに管せず、これすなはち心出家なり。
 おおむかしのことだから、今の世そぐわないという、そんなことはないんです、人間の性質むかしから変わらんです、そのありように反すれば、病気になったり狂人になったりです。でなければ役立たず。そういえば役立たずみたいの多いです。
 出家というものなくなった、たとい出家したくとも、受入れ先がない、そりゃ不幸なことです、一個の救いはどこに行くんです。世の中日本にとって不幸です。世の中に出外れて、世の中を知る、国を導くものを国師と云ったです、近年まで政治家の土性骨にもなった。
 お寺という在家護持会仏教です、では心出家すればいい、たとい妻子ありとも、塵芥の如く、愛するは月の空裡にかかるが如く、流転三界中劫外を明きらめ、煩悩を断ずるも病、真如に趣くも邪です。
 できないことはないんじゃなく、これしなければ仏でもなく、仏教でもないんです。
 わかりますか、最愛の人も子も親も、はっと見れば千万里の遠くにあります、塵芥というより、手をさすに届かないんです、日常身心なく、空裡にかかる月のたあいなくたたわわです、なんの目的としてこれないんです。
 もののほんとうこれです。
 世界は悟ろうが悟るまいがこうあるんです。和とはこれです。世の恩愛結局はわざわいのもとを知る。
 一つしゃきっとして下さいってね。
 あんまりあっちこっちだらしがなさ過ぎる、ひとえに仏教の堕落です。
 諸縁を放捨し万事を休息する、なにはなんたってこれ事初め。


永日如夜、永夜如昼。
外似頑 ギン、内心虚真。
・永日夜の如く、永夜昼の如し、外頑ぎんに似て、内心虚真たり。

 永日夜の如く永夜昼の如しというのは、得るに随い実感なんですが、なに夜は夜昼は昼ですよ、暗室移らずと、そうですねえ少し若いですか。結局人間のやることは同じだ、ものみな変わらずといって、出入り自由です、流転三界も、ビッグバンの三つ四つも、机の角へ頭をぶっつけるのも、猫をなでるのも、さして変わらないんです。 雪消えの春はいいし、雲の間に浮かぶ月を見るに飽きないんです。 ギンというのは口四つん中に臣と書く、やかましい、かまびすしい、おろかの意。いかつい、頑是ないがきと同断ですか、商売がら気に食わないの追っ払わないんですが、気に食わないってのいなくなった、怒鳴ろうがなんも云わずが、けりってことあって、だれあって付き合うです。退屈なのは、はいお開きってね、これどういうことかというと、思想考え方によらないんです、だれも同じです、同じことは、仏教のあるなしじゃない。ひっかかりとっかかりも、こっちとっかからない、なつかしいってばみんな親しい。
 そろっと帰ってもいいよってね。
 なぜか訪ねて行く気はしない。
 趙州真際大師六十歳再行脚、
「我より勝れるものには、たとい三歳の幼児といえども、これに師事し、我に劣れるものには、たとい百歳の老翁といえども、これに教示せん。」
 といって杖を取るんです。外頑 に似て内心虚心が行脚して行く。万が一にも出会えるものは幸せです、ふれるものみなに救う、
「おれには大法がある、世界広しといえども。」
 とか、
「なんまんだぶつ万能薬。」
 とかいう、板っぺらみたいんのと違うんです、人間です、独善ではない、本当にこれ、これ以外にはないところを見て下さい。


対境不動、有力大人。
無人無見、無見常現。
・境に対して不動なるは、有力の大人なり。人無く見無く、見無うして常に現ず。

 世の中の役に立つ人というと、ちょっとやそっとのことでは動じない、火中の栗を拾う頼り甲斐のある有力の大人、境に対して不動の人です。今たいていヒステリックものまにあっくの男はいるけれども、どうもくされこんにゃくみたい、もしや女のほうが頼り甲斐有力の大人ですか。
 でも仏はこうじゃないっていうんです、いえこうある根本のものなんですよ、人無く見無くです、だあれもいないと同じです、どうですか人間から意見とか思想とったら、無意味になっちゃうでしょう、アッハッハ喧嘩するたって、おれいいおまえ悪いからって云わない、見を立てない、すると仏に近いんですよ。
 こうあるっきり、無見にして常に現ず、余るところも欠けるところもない、虚空そのものです。
 そりゃそういう知識あったってしょうがない。
 至道無難禅師ある人地獄を問う、余答えて云く、身心に科あるを地獄というと。また極楽を問う、余答えて云く、身心に科なきを極楽と云うと。ある人仏を問う、余答えて云く、身心なきを仏と云うと。その人云う、では死人と同じではないかと、しかり死人と同じ我が宗旨なり。
 わかりますかこれ、もの覚えるなら、そっくりこれ覚えりゃいいです。しばらく道の足しになります。
 無人ということをよくよく見てとって下さい、因果無人だからという、おれはという、だからというを失い去るんです、無人の人いよいよ人間大好きってことあります、無条件好きです。対境不動の人たとい千日廻峰行です、修行せずんば納まらず、一木一草に立ちつくすんです、修行しおわってなを収まらず、行ない清ますよりは外頑ギンに似て、わけもわからんです、日照りの夏を無人無見にしておろおろ歩くんです、たいてい詞にはならんのです、我が心にも雨が降るという隔靴掻痒でなく、無見にして常に現ず、わずかに自分という架空の殻をぶち破って下さい。たといどんな修行もついにはもとの木阿弥です。こんな楽な方法ないです。
 一切向こうまかせをです、観察しないんです。
 趙州和尚因みに僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄。州云く、汝の道うは、真髄に非ず皮袋ならずや。
 仏教の真髄如何です、対境不動を求める有力大人です、人みな一00人が一00人真髄っていうんでしょう、それを大趙州、そうかいっていうんです、おまえさんの云ってるの真髄じゃなくってそれ皮袋じゃないか。
 どういうことだと思います。眼耳鼻舌身意乃至五蘊です=自分、つまりこれ皮袋ってこってす、一筆書きで人間を書いて、それを回転させると=心とか自分とかです。でそいつ消しちゃう、仏法の真髄と云っている皮袋一枚はがす、血まみれ内蔵じゃなくってなんにもなくなるよっていうんです。これ無人無見つまり人間止めるんです、なーんにもなくなってすべてあるんです。


通達一切、未嘗不偏。
思惟転昏、汨乱精魂。
・一切に通達して、未だ嘗て偏らず、思惟すれば転た昏く、汨乱をおさむるに魂を精やす。

 もと解決済みというと、百科事典全巻スパコンまるごと頭ん中に入っているかという、たといスパコン何万台分も、もと解決済ってわけには行かないんでしょう、そうじゃないんです、見る通り聞く通りってきりです、見る通り聞くとおりスパコン何万台以上って思いませんか。もとこう生まれついて、こう暮らして来たそのまっただ中、廓然無聖個々別々、手をつけるもつけないもないんです、惟るに従い昏迷するんです。わかりますか、一を聞いて十を知るだけ遅いんです、目から鼻へ抜けるんじゃない、目鼻なし。
 浄極り光通達し、寂照にして虚空を含む、
 却来して世間を観ずれば、尚夢中の事の如し。
 これ年回回向です、死んでしまった人への言葉というわけです、そっくり悟った人に当てはまる、つまり生きている人への回向です。
浄極まるとは浄といっているものが死ぬんです、光通達とは身体失せてしまったってことです。寂照=妄想が失せたんです、寂照にして虚空を含むとは、坐ってまさにそのとおりです。
 却来して世間を観ずという日常生活です、現実であればあるほど夢です。
 とやこうと反省する、根に持つってことがない、たとい根に持ったろうが根なし草、総じて夢中の事の如く、日々また日々楽しいんですよ、ほんとうの楽しさって、たいていの人の楽しみですよ、一瞬あって一瞬去るんです、三つ四つの子供のように楽しいってあるです、雪ふって楽しく、雪消えて楽しく。
 コン乱を納めようとして精魂を費やすことがないからです。
 乱を乱のままにする、すると乱なんてものないんです、これが物の道理です。コンとはサンズイに日と書く、水をおさめる、流す、またみだれるの意。いい字ですよ。水を納める者天下を取るの中国です。水を納めようとしたらだめなんです。流れるように流してやる工夫なんでしょう、ダムだのコンクリート壁だの、そんなことしては即ち乱です。
 水ではのうて人心乱れ敗壊するんです。


将心止動、転止転奔。
万法無所、唯有一門。
・心を将って動を止むれば、転た止んで転た奔る。万法に所無く、唯一門有り。

 通達一切未だ嘗て遍ねからず、これ先の一句偏ではなくって彳だった、つまりシンニュウと同じ遍く、偏よると反対っこになる、いやどうも失礼しました、いつもやってる早とちり。するとこうなります、一切に通達しようとすれば、未だ嘗って遍からず。心をもて運んで通達を図る、いまだかってすべてに行き渡ったことはない、です。どのみちこれ自分の心に照合すりゃいいんです。こっちから手をつけない、推量しない、万法に証される、あなた任せにするんです、それがやっている人一人だから始末に悪い、通達させながら、もと通達だという、天地懸絶に気がつくには、参ずることしかないです、痛棒を食らうもっとも端的です。
 心を将って動を止む、坐っている人しばしばこれをやるんでっしょう、止めるにしたがい妄想煩瑣、ああでもないこうでもない真っ黒けです、体は正直で偏頭痛がしたり、どっかぎしぎしです。
 坐禅というのは体に聞く方向ですか、身心失せるにしたがい、ほんとうに楽にうまく行くんです、虚空そのものになって万縁調直です。
 だから苦しがってうんうんやっている人、どっか間違ってますよ、本末転倒だっていうんです、ちょっと正すといい、あるいはけい礙ある障りある一瞬ないってことです、どう転んでもそこ100%です、悪所なし。もし反するとき孫呉空の頭の鉢です、三蔵がお経を唱えるとじーんと痛くなる。
 これ心という双頭の蛇ですか、たった一匹が二通り三通りしようっていうか、尻尾をかもうっていう頭ですか、だから一瞬ふっと消える、収まってしまうんです。
 ありえないことやるから、頭の鉢痛むんです。
「サトリなんていらない度しがたい愚か者でいいんだ。」
 という、アイダミツオ式の人多いんですが、そりゃ世の風潮に迎合しているだけで、仏教には無関係です。困っているのは自分自身です、それを固塗して、なんともまあどうしようもない世の中と、心身症めいて、だれもかれも困っています。
 サトリなんていらないといって、悟りのなんたるかを知らない、度しがたい愚か者って、そりゃ他人の物差しでしか自分を計れない人です。人の足引っ張るだけの、つまらんこった。
 転止転奔の最終局面みたいな、観念倒れ嘘ばっかりの世を、なんとかしないと、そりゃもう駄目なんです。
 為には、
「自分が至らぬ。」
 というところからです。
 なにあったって人のことばっかりいっている、雪印は峨外務省は政治家はです、そうじゃない雪印はあなたです、外務省はわたしそのもの、どっかでおかしくなっているとは、人=自然のおかしがたいこと忘れているんです。
 たといこの心銘です、このとおり行なわれていて、これにもとることしたら、因果応報です、ろくなことにゃならんのを知る。 
 万法に所無く、てまえ味噌やらないってことです、一億総勢自分流ですか、人に知れなきゃ法律に触れなきゃという、そんなのなんにもならんです。
 自分流とは猿真似ということなんです、かってきままとは不自由そのものです。
 禅宗無門関もと入りっぱなし、内外なしはどうあったって免れえぬのです、唯一門有り、仏祖哀れみの余りの広大の慈門、示す、他なくに示すだれあって同じたった一通り。直指人身です、
「これだ。」
 というんです。
 かえりみるんです。かえりみたらそれっきりです。かえりみて何をどうするじゃないんですよ、安楽の法門です。   


不入不出、非静非喧、
声聞縁覚、智不能論
・入らず出でず、静に非らず喧に非ず。声聞縁覚の、智く論ずる能はず。

 不入不出、だからもと入りっきりなんです。たとい禅宗無門関他の一神教とはちがうんです。
「心して狭き門より入れ。」
 という、狭い門から入ったら狭いっきりです、同じ羽根の鳥を集めて、平和といっては戦争、博愛といっては独善です。
 これどうしようもないですよ、どうしようもないものがのさばる、支配的だったというのは歴史上多々ある、というより歴史とはどうしようもないがらくたですか、中国殷の神さま饕餮もインカ帝国の生け贄神さまも、信じられぬほどの出鱈目です、今思えば無茶苦茶そのものが、千年間も人類およびその環境を支配する、そりゃ人間以外から見れば勝手にさらせってことの、はた迷惑。
 でもだからってギリシャ神話がよっぽど人間心理といおうが、五十歩百歩なんです、ユダヤ教キリスト教回教目くそ鼻くそってことあります。
 そうして今の無宗教の混乱雑多は史上最低ともいうべき。
 いつの世だってこういうことです。
 革命を起こしてぜんたいをなんとかしようって、そりゃ共産主義赤軍派ポルポト派ひいてはオウム等新興宗教です。
 最終解脱などいう絵に描いた餅です、
「こうあらねばならない、だから。」
 という、不入不出に反するんです、静を求めて喧です。
 そうではないんでしょう、わずかに一個の蒙を開けばいいんです、そうして次の一個です。
 他になんの方法もありません。
 無無明亦無無明尽。
 わかんないやつにはサリンじゃないんです、
 声聞縁覚聞いたふうなこと、知識判断をもってすると、たいていそうなるんです、解脱というまさかり振り回すんです、そりゃ解脱してない証拠です、赤軍派もポルポトさへ正しいという、アメリカは正義の戦争やるんです、正しいからというとき正しくないんです、これ鉄則。
 よくよくここを考えて下さい。
 ほんとうとは正しいとか真実のレッテルいらないんです、もとそのものずばりです、
「正しいから正しいんだ。」
 とは餓鬼の言い分です。
 人が云うこと聞かなければ、戦争だサリンという。
 非静非喧です。
 そうですこれがほんらい示すところをよく見て下さい。
 見たふう聞いたふうじゃ届かない、腹ふくれないんです、声聞縁覚届かないんではなく、まったく間違いを知る、これが仏教です。


実無一物、妙智独存。
本際虚沖、非心所窮。   
・実に無一物、妙智独り存す。本際虚沖、心所の窮まるに非ず。

 まさにこれ実感です。
 無一物中無尽蔵、花あり月あり楼台ありという、床の間に置く掛け軸っじゃないんです、ましてや墨痕鮮やかにのらしい揮豪じゃないです。
 なんでも人まね、らしいものありゃの人、これが実感を見ない。
 まさにこうっきりないというんです。
 身心なく妙知ひとり存す、本際虚沖もとここからこうっていう範囲がない、これどうしても心所を窮めて行くと範囲、かけらが残るんです、残ることを知っているから、どうしても面白くない、ついにお手上げ、心所窮を手放すんです。
 実にもとっからこうあるんです。
 一日洞山雪峰に問う、何をかなす。峰云く、米をふるう。山云く、砂をふるって米を去るか、米をふるって砂を去るか。峰云く、砂米一時に去る。山云く、大衆箇の何をか喫せん。峰便ち盆をくつがえす。山云く、汝が縁徳山に在りと。指して之に見えしむ。わずかに到って即ち問う、従上宗乗中の事、学人還って分有りやまた無しや。徳山打すること一棒して云く、何と道うぞと。これによって省あり。
 後鰲山に在って雪に隔てらる、巌頭に謂って云く、我そのかみ徳山の棒下にあって、桶底の脱するが如くに相似たりと。巌頭喝して云く、汝道うことを見ずや、門より入る者は、是れ家珍に非ず、須からく是れ自己胸中より流出して、蓋天蓋地にして、方に小分の相応あるべしと。雪峰忽然として大悟。礼拝して云く、師兄、今日始めて是れ鰲山成道と。
 今日始めて是れ鰲山成道と、どんなにか嬉しかったに違いないです。砂米一時に去るから、徳山の痛棒から、飯頭という飯炊きをやりながら、雪峰は一途に求めるんです、
「仏法はこうあるべき。」
 という、
「仏はこうあるべき。」
 という、どうしてもそこから離れられない、そりゃどんなに悟ろうが、見ようが納得行かない、
「はたして自分は。」
 とふりかえらずにはいられない、仏法の物差しに照らし合わせです、そりゃどこまで行っても、どっか不足です。
 鰲山雪中、巌頭は足つんだして寝ている、雪峰は坐っている、なんでそんなにせっつく、いやおれはあんときはこう、こんときはどう、体ごと消えてなくなったの、深い井戸の底にあるようなとか逐一するんです。ばかったれと巌頭が喝する。
 門より入るものは是れ家珍に非ずです、仏法という錦の御旗そんなもんあるわけがない、どんなに卑近だろうが、
「いったいおれは。」
 ってことです、自ずから出て蓋天蓋地する乃至は言下に大悟です。
 実に無一物妙智独り存するんです。心所の窮まるに非ずを知る、たとい洞山米をふるうか砂をふるうか、目のあたりするんですよ、面白いんでしょ、米と砂とこうある忽然大悟、本際虚沖です。


正覚無覚、真空不空、
三世諸仏、皆乗此宗。
・正覚は無覚にして、真空は空ならず、三世の諸仏、皆此の宗に乗ず。

 正覚無覚、真空不空、そうですこれが仏かそうでないかということなんです。そっくり同じことを云おうが一目瞭然です。ちらとあればひっくりかえる、悟りあれば悟りにより悟りなければなきにより滞る、仏教あれば仏教に振り回され、仏あればきつね狸です。元の木阿弥を云えばかえって落ち着かず、天下取ったといえばなんにもならずです。
 趙州衆に示して云く、至道無難、唯嫌揀択、わずかに言語有れ芭、是れ揀択、是れ明白、老僧は明白裏に在らず、是れ汝還って護惜すやまた無しや。時に僧有り、問う。既に明白裏に在らずんば、箇の何をか護惜せん。州云く、我も亦知らず。僧云く、和尚既に知らずんば、何としてか卻って明白裏に在らずと道う。州云く、事を問うことは即ち得たり、礼拝し終わって退け。
 至道無難唯嫌揀択ただ憎愛無ければ洞然として明白なりと、信心銘にあります。道にいたるに難しいことはない、嫌うことなくいいわるいいわない、憎い愛するなければ洞然として明白、もとっからこのとおりだというんです。明白である、道としてはっきりしている、老僧は明白裏にあらず、汝かえって護惜すやまた無しや、どうですか、道もまた取らず、道としてそれなかったらどうするんです、といったぐらい。
 至道無難、おいそれとは手に入らんです、至道無難禅師はこの語によって得るところあったので、この名を冠したという、
 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき
 禅師の御歌です。唯嫌揀択ただ憎愛なければとはこれです、棺桶に入ったらまさに手に入るぞってね。でもって生きながら死ぬること、生きている老僧は明白裏にあらず、正覚無覚真空不空です、でなかったら思考停止、脳細胞死ぬっていうんです、空を観じ正覚を論ずる学者どもってそりゃ死体ってこってす。なま死にの死体ってなんという無様。
 すると一僧あり、既に明白裏にあらずと、箇の何をか護惜せん、アッハッハまさにまあそういうわけの、州云く、我もまた知らず。そりゃわしもわからん。わからんていうのがなんで明白裏にあらずなんだ、どうも一本取られたってふうです。云うことは云いえたり、礼拝して去れ。別段のことはないっていうんです。
 さあどうですか、どっちがどうなんです、いったい何を云ってるんですか、しばらく各々省みて下さい。
 禅宗門もなく問答もなく仏教もなし、ただほんらいこうあるっていうだけです、如何なるか是れ仏、三世の諸仏知らず、狸奴白狐還って是れを知る。


此宗毫末、沙世含容。
一切莫顧、安心無処。
・此宗毫末なれども、沙界含容す。一切顧みる莫く、無処に安心す

 この宗毫末なれども、一切沙界含容す、これが仏の教え仏教なんです。他にはないんです、他みな教義あり由緒あり荒唐無稽な物語いきさつです。仏ばかりは、わずかに明星一見の事があって、一切終わる、ものみな解決済みです。
 我と有情と同事成道。
 ただ一個本来のありようを知る、忘我から立ち返った一瞬です、一切世界が手中になる、他のアップローチはないんです、世にいわゆる仏教というものはよけいものただのがらくたです。近似値と云えるといったって、近似値いくら集めても近似値です。
 あるいは近いほど遠いんです。
 道元禅師打睡一下の因縁、道元禅師十三歳に比叡山へ上り十七歳一切経巻を尽して、畢竟するところ、
「人間本来本法性、天然自生心。」
 というらしい、もとこのとおり手つかずだというんです、ではこのまんまでいいなんにもせずにいたって、さっぱりよくないんです、たまたま栄西禅師に、如何なるか是れ仏と問う、
「三世の諸仏知らず、狸奴白狐卻って是を知る。」
 という返事に、どうもさっぱりわからなかったんです。
 そりゃたしかにそのとおり、でもこっちも仏に到らなければそりゃ納得せんです。よって万里の波頭を越え入宋沙門です。中国に渡って諸方参歴して、ついに天童山の如浄禅師に会う。
 当時にしても、難知難遇の正師であった。それまで当るを幸いというか、だれかれやっつけて歩いてたんです、こっちも知らないがおまえさんも偽物だってわけです、外国語をもってこてんぱんですか、たいしたもんです。
 正師に遇う、とたんにわかるんです、仏法ちんぷんかんぷんだろうがこれはと知る、人間て不思議なものです。
 そうして一切事に就いて聞法です、聞法本当に聞けば九割方行くといいます。裏を見せ表を見せて散らんきゃそりゃ駄目です。これはとかいって隠すより現れるんです。恥かきなんてこっちゃないです。
 ついに問うことなんにもなくなって坐る。
 忘我です。
 たまたま隣単に居眠りする雲衲がいて、居眠りと坐とは違うといって、如浄禅師が警策する、それを機縁にはあっと一念起こる、我に返るんです。
 身心無うしてものみなあるんです、解決済みです。
 此宗毫末なれども、沙界含容す。
 やったあやりましたあと云ってすっとんで行く。
 身心脱落来。
 身心脱落し来たる。
 そうじゃないよ、如浄禅師は云うんです。
 脱落身心底。
 脱落せる身心底、もとっからこうあるんです。ここに於てまったく収まるんです。やったあやりましたあではなく、無処に安心するんです。あのときこうしたという一切顧みるないんです。
 眼横鼻直にして他に瞞ぜられずです。
 機縁というのは、みしっという天井の音だってはあっと通身消える、明星一見の事ですよ、居眠りがどうの他関係がないです。何故に一切沙界含むかというと、平たく云えばおぎゃあと生まれて物心つくをもう一回やるんです、追体験というより、自分という妄想のよって来るところを根本に知る。
 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。 です。
 お経も仏典もただこの事を述べてあるだけなんです。
 此宗毫末沙界含容と。他にはないんです。


無処安心、虚明自露、
寂静不生、放曠縦横。
・安心の処無うして、虚明自ずから露はる。寂静不生にして、放曠縦横たり。

 無処に安心するんです、だから抜き手放しっていう、これできるようでできない、でもこれなけりゃあ仏教とは云はれんです、ちらともあればかたくなにして、放逸なんです、寂静不生にならない、放曠縦横自由の分がないんです。
 つなげる駒伏せる鼠、先聖これを悲しんで法の檀度となる。
たとい十劫樹を観じようと、たった一枚皮です。
 そうですよこうあらねばならぬってことないんです。


所作無滞、去住皆平。
慧日寂寂、定光明明。
・所作滞る無く、去住皆平らかなり、慧日寂寂として、定光明明たり。

 所作滞るなくといって、らしいふうの芝居じゃない、流れるような美しさとかじゃない、無有恐怖です、心無け礙です、遠離一切転倒夢想です、こうあるこれっきりというんですか、たいてい人の生活同じです、聖人に夢なしっていうでしょう、ただの現実です、そりゃつまらん幸福が欲しいいいことがいい夢という、アッハッハ世間そういう人にとっては、退屈まったくやり切れんというんですか。慧日寂寂、転ばぬ先の杖がいらない、自分の取りえがない、抜きん出て益なしというんです。定光明明きれいさっぱりですよ、可もなく不可もないんです。いいですか首くくる縄もなし年の暮れ。
 だから役に立つんです。
 取り付く島もないんです、だから平和なんです。
 千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天。
 こんな風景見たことないんでしょう、
 水を掬すれば月掌に在り、菊を手折れば香衣に満つ。
 はいこのように取り付く島もなし、自然をガイアとかいって我田引水しないんです。
 だから永しなえなんです。
 銀椀に雪を盛り、明月に鷺を隠す。
 類して等しからず、用いて諸苦を抜くんです。
 これ無くんば八方過現未まっ暗闇です、たった一つの光明なんです。
 大法を説くから仏者ではない、たったひとり唯我独尊底の人です、まずもってこれを証拠して下さい。慧日明明水自ずから澄むんです。 人間の如来は人間に同ぜるが如し。ただもうものみなこうあるっきりです。


照無相苑、朗涅槃城。
諸縁忘畢、詮神定質。
・照す無相の苑、朗たり涅槃城。諸縁忘れ畢って、詮ずるに神定質なり。

 迷故三界城、悟故十方空、そうです万歳っていうんですが、到りえ帰り来たってこうあるんです、柳は緑花は紅。それを逆さにやっちゃだめです、仏はこうあるべき、寺院はこうあるはずという、たいてい日本人大好きな結果論です。そりゃぶち壊しです、なんにもならないどころか百害あって一利なし。
 らしい坊主を作る、らしい庭園とかなんとか上人のテレビ番組です。しょうがないです。般若心経をだれあって知っているのに、単純明解なその心が不明だ。色即是空と筆書すると終わる。つまらんです。
 いっそお寺も国宝も破壊しちまったらいい、ほんに素直になって一から出直しです。
 だれもかれも見たよう聞いたふうしか云わない、逼息社会です。
 師家だろうが尼さんだろうが、一枚はぎゃ鈴木宗男やっている。
 もっての外のこってすよ。
 詮神定質とはあるがとおりというんです、神経というでしょう、もののありよう微妙を神という、たとい造物主ありとも見えねばととかんのです、だったら想定しないんです、これを定質といいます。 人間ほんとうの智恵です。


不起法坐、安眠虚室。
楽道恬然、優遊真実。
・法坐を起たず、虚室に安眠す、道を楽しんで恬然、優遊として真実たり。

 一個まさにかくの如くのありようです。いいでしょうこれ、法坐を起こさずでいい、一挙手一投足説法ならざるはないんです、同じ羽根のやからを求めてあくせくがない、数を集める宗教じゃないんです、そのための絶学無為です、閑道人です、眼横鼻直他に瞞ぜられずはだてじゃないんです。
 一人いきがっているとは違います、まったくその反対です。
 時代によらないということ一つ知ればいいです。
 一個100%満足の方法、いつでもだれあってもです、そりゃ一億これを知ればそれに越したことないです、仏教理想社会という、そういう現実があったです、岩の隙間から見る空もまっ青です。そよ吹く風さへ大法です、地上の王と大法の王があいあうんです、でもだか別に百花繚乱を要さないです、だからといってたった一個大法となんら変わりないんです。
 どうかこれを得て下さい。
 恬然として道を楽しむこと、優遊たり真実たりです。
 他ないんですよ。


無為無得、依無自出。
四等六度、同一乗路。

・ぬうと出りゃいいってことです、ぬうと出る真似事しかできない、ほんとうと観念の区別もつかない、現代人はしばらく苦労する必要があります。
 なに飲食節あり諸縁を放捨して坐ってりゃいいです。
 一人きり坐っていりゃ直にもとへ戻るです。
 痛切に思い知る、そういうことあってしかるべきです、くされこんにゃく夢の島じゃ面白くない、生きた甲斐がないです。
 日本人が日本語もしゃべれないようじゃ、そやオリンピックも勝つわけないんです、どうもそこらへんから根本に反省すべきです。そうしてしばらく人間の形とったら、やってごらんなさい。
 だれにでもできます。
 四等六度生老病死の四苦諦でもいい、非有非無非非有非非無でもいい、六根清浄無眼耳鼻舌身意でもいい、なにがどうあったろうがどこにも疵なしあとかたないんです。
 どこに六根清浄って書いてありますか、いや杖に書いてあるってそりゃ自分が書くからある、杖いらない。健全の人二本の足出歩くんです、清浄がなければほんとうに清浄を知る。
 同一乗路ってなにやったって一つことです。
 無神論の雑念じゃないんです。そういう役立たずの自堕落と正反対だ。
 仏教触媒のようなものだという、そんな役立たず、馬鹿なことない、万事一乗路。
 ちらっともありゃばっさり。吸毛ばくやの剣。


心若不生、法無差互。
知生無生、現前常住。
智者方知 非言詮悟。
・心若し不生ならば、法に差互無く、生を知るに生無く、現前常に住す、智者は方に知る、言詮に非ずして悟ることを。

 これが末尾の一対とおまけです。二句ずつ切って来たのもこっちの勝手だったり、一句余るのも向こうの勝手だったり、だれあって一句通達すればおしまい、智者は方に知る、言詮に非ずして悟ことをといって、まっぱじめに戻ればいいです。言詮に非ずというんだから実行しかないです、悟れったら悟るしかない、その方法の逐一です、あれこれあるわけじゃない、
「手にもっている、ほれその茶碗の中に入ってごらん。」
 と云われたら、ころっと入っているよりないです。
 方法と来たら断崖絶壁です。なに云ったろうがやったろうが、入るには入るしかない。
 むかし土百姓の出で目に一丁字もない人がいた、どこかで仏教のこれあるを知り、どうしても得たいと思った、あっちこっち工面してとにかく中国へ渡るんです。そうして捜し求めて正師を得る。
 言葉わからんです、師はその手をとって十文字に引き丁の字を書いて、これと示すんです。
 昼夜探題の末についに丁の字に成り切った。四年の後です。そりゃ見りゃわかるんです、たとい師がどうであれ自ずからに知る。
 眼横鼻直他に瞞ぜられずを知って帰朝するんです。仙台にある三つの大寺のどれであったか、開山和尚になったという実話です。
 仏教を理解する大変だ、八万四千巻もお経がある、仏教辞典ある大学あり学者はこういった、上を見れば切りもなし、世間地位だの女に持てようなど、いっときなげうつんです。
 たった一人になりゃいい。
 一人になるのが恐いって、アッハッハそんなことないです。
 ついに得たりです。
 まっしぐら真っ正面に手間ひまかからんです。脇見運転色っけいつんまでたってもらちあかんです。
 仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹を観ず、虎の欠けたる如く、馬の夜目の如し。
 どうやってもこうやっても、先んじてとやこうです、手放しになれない、苦労しすぎるんです、そういう人に心銘はいいです。
 たった一句にそうかと思い当たるんです。


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