座禅について--只管打坐    

  
 只管とはただ、只管打坐ただうちすわる、まるっきりただということです、手つかず、自分が自分に手をつけない、心が心を見ることをしない、もとのまんまです、他にはないんです。だれだって足を組み、両手を膝の上において、目を半眼にして、せいせいとして、
「ただ坐っている。」
と云います。それがただにはならない、必ず手をつける、ぼんやりしている、眠くなる、そういう自分を見ている、影を眺める、かってな空想を追うなどです。
 只管打坐にはならない。
  自分とはたった一つです、自分が自分を観察することは不可能なのに、なぜかしている。心はたった一つなのに、空想し、それを追う心があって、またそれをという二人三脚です、もとありえないのに、なぜかしている、心身症ノイロ−ゼのこれが原因です。
 人はあることには苦しまない、ないことに苦しむんです。
 石につまずいて生爪を剥がしても裁判沙汰にはならない、人が踏んずけると厄介ごとです。
  まるっきりただの方法とは、元の木阿弥。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香舌味触法です。
 無心ということです。心がないとは心がたった一つということ、心のすることを別の心が観察しないんです、もとそんなことがありえないことを知るんです。
 生まれたまんまに立ち返ってみる、元の木阿弥法です。
 そう簡単ではありません。
  一にはただ坐ってはただにならないことを知る。けっかふざして精神修養などでは、なんにもならないことを知るんです。
 二にはそうと知ったら本来を求める、どうしたらほんとうになれるか。
 本来ほんとうになろうとするかぎり、ほんとうになれない。
 ほんとうになろうとしなければ、ほんとうは得られない。
 どうすればいいんですか。
 まったくの手付かず。
「まるっきりただ坐ってごらん。」
 と云うよりないんです、いいご機嫌で、とやこういいの悪いの、云わないで、そうそう、むちゃくちゃでいいんです、やってごらんなさい、そんなふうに云います。
 坐るほうは、ご機嫌にやっているうちに、どうなったああなった、妄想が出る、背中が痛い、いい気分だった、風景が見えた、仏さんがいた、いや女のあっこが見えた、だからどうだと云って来る。
「なりふりかまわず坐りなさい。」
 だからどうだってことない、まっしぐらです、自分を観察しない、結果を予測したってだめだってことです。
 人生というものがまさにそうなんでしょう、どう予測しようが、反省しようが、いったいどうなるかわからない。
 だから人生として面白いんです。
 観念がんじがらめに自分を縛る、閉塞社会そのものです、仏とは何か、ほとけはほどけだと云った人がいます。自縄自縛する縄をほどくんです、ほどき終わればもと仏。
 いいですか、そうやってむちゃくちゃわけのわからんというほどに坐っているんです、わけのわかる、清々と云ったほどに、手付かずただから遠いんです、わかりますか、よくよく解かって脱する、ほどけ終わるのを解脱と云います。 すると、いろいろあったりする。
「コ−ンと鉦の音を聞いたとたん、ばかっとこう体ごとなくなって、しばらく動けなかった。」
「動けば動けたでしょう。」
「はい。」
 体をあるものと思い込んでいた、その自縛から抜け出たんです。
「電車に乗ろうとしたら、それが乗れないんです、停車の動きに併せてもっちが動く。」
「なに乗れますよ。」
「ええ。」
 自分と自分以外と思い込んでいた垣根がふうっと外れる。
「向こうに酒を飲んでいるやつがいた、見ているうちに自分もこうとっくり持って、− 」
 などいうのはなかなかに行けている。
「坐っていてどうしてだか地球とさ、一発やっちまった、大地と性交っていう、それがスペルマは出なかった。」
「汚いやつだ。」
「どうもあの。」
 自分および人類の観念知識から抜け出る。
 さまざまにあります。人間というものがいかに常識、社会通念など思い込みの虜になっているのかを知る、知って別にどうってことはないんです、歴史宗教イデオロギ−など、もと人間のかってに作り出したものです、作り出したものに人間が支配されることはないんです、出入り自由です。
 ついには自分というものがまったく失せるんです。
 自分という思い込みの殻を抜けるんです。
 体がなくなって風景と自分が一体化している、それを見つめている自分があったらだめです。
 いったんなくなるんです。
 忘我といいます。
 ほんとうに忘れ切って、そうして一念起こるんです。
「至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。」
 と、むかしの人も云っています。
 このときはじめて仏教としてものみな掌するんです。
 只管打坐の本来はここにあります。
 只管打坐でなく、無字の公案とか眉間に意を置くとか、アルファ波の追求とか、いろいろあるんですが、なにかしら手段を取ると手段倒れです、悟ったと云いながら悟りというものを持ち、それによって人生をしきってもって、結局は生活そのものにならない。
 お釈迦さまにはなんの手段もなかったんです、あらゆる一切事において、仏だったんです。
 ちらとも手段を仮ると仏にならない、仏教という木偶に巣食う虫です。
 まるっきり手つかずの法しかないんです。
 なぜかといって、私たちの生活このありようがまるっきり手つかずに出来ているんです。
 悟りおわって悟りなし、廓然無聖がらっとこう個々別々なんです、ヒエラルキ−やカルト教団ではないんです、人みな知らん人になって下さい、花のように知らないって云うんです。そうして初めて人間も地球の仲間入り、いったん人間を卒業するんです。
 やさしいって云えば元の木阿弥、難しいって云えば、一句を持って来なさい、是は是、不是は不是。


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