発心の人へ



 坐禅はどのように坐るのかと聞かれて、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄と坐りなさいと云う、心経の冒頭の一節まことにこれに尽きるものがあります。
 観自在菩薩、なんのとらわれもなく、まっさらな赤ん坊のようにとは、一切事に於て尽くし終わるんです、音と一つことになっている観音菩薩ですよ。面白いでしょう、人間も仏教も卒業しちゃうんです、すると生まれたての赤ん坊です、生まれる以前の姿です、すなわち七歩歩んで上下四惟指さして天上天下唯我独尊です、これを如来という。道輪廻を一歩踏み出すんです、解脱すると如来なんです、来たる如し宇宙の一かけらのような生まれ立ての赤ん坊の目。
 むちゃくちゃに坐るにいいです、なにをどうしたって届かない、どうにもこうにもならんのです、人為の所を停止する、自分という格好をつけない、観察しないんです。もとこのとおり手つかずと答えはわかっても、未だ至らずです、だからむちゃくちゃです。なりふりかまわずもとこれっきゃない。すべてが坐中です、矛盾もなにももうありゃせんです、アッハッハ死んだらもとっこってこんですかな。
 行深深く行ずるんです、手つかずの坐をたとい手をつけたってなりふりかまわずです、そっくりそのまんま行く、どこへ行くったってもとこのとおりですが、長いほどいい、飽きるほどに坐ってはまた坐る、投げ入れてしまえばいい、ふと気がつくと身心というものなくものみなある、はあっという自分を指し示す指がない、葉っぱは揺れずこっちがこう揺れている。
 不思議です。
 思議に預からんのです、これがもとのありよう、自分というのうしてものみなある、父母未生前の消息です、これを般若波羅蜜多パーラミイター彼岸にわたると云います、こっちの岸からあっちの岸へ。
 放てば手に満てり、握り締めていたものを離す、これ坐禅の要決です。もと自分のものなんてこれっから先もないんです、この点仏教は徹底しています、二番煎じの神さまなどを用いない、身心身も心ももと仏、自分のものではない、ほどけば仏です、行深とはこの間のことを云うんです、坐禅です、坐っても坐ってもっていうんです、なかなかほどけば仏にならない、身心として我がものと思い込みが強いんです、どこまで行っても握り締めています。
 彼岸にわたってもなを彼岸です。彼岸にわたりきったら彼岸が此岸のはずだのに、なをかつあっちと云ってるんです。
 ちらとも見る身心脱落の様子から、
汝今身より仏身に至るまでこの事よく保つや否や。
 ということあって、ほんとうにこれになり切って行く、これが坐禅なんです、それまでは修禅の域を出ない、つまり坐禅にならない。
 無所得の故にぼーでぃさっとばです、色即是空のそのまんまです。
 照見五蘊皆空と知るんです、ものみな思い込みと知る、人類世界からいったん外れて下さい、正中妙挟交唱並び挙ぐ衆に通じ途に通ずです、いったん離れる、ものみないっぺんに把握するんです、ち草の味わいの如く金剛の杵の如しです、ただこうあるっきりのオールマイティです。
 これが坐禅です。
 自分を知らないんです、悟りもなく仏もなく坐としてこうあらねばならないということないんです、なにあったろうが即座に救われてある、もと解決済みを知る、度一切苦厄です。どうです、度一切苦厄と坐ってごらんなさい。
 いいですか、度一切苦厄ですよ、あんまりすばらしい楽珍というとき、その楽珍をも捨てる。

 どのように坐ったらいいかという、舎利子、色不異空、空不異色と坐ればいいです、じきに色即是空です、もとっから空即是色なんです。
 舎利子シャーリプトラお釈迦さまの十大弟子のお一人と云います、でも三蔵法師は巧みに訳しています、校舎の舎利益の利子は人です、たといシャーリプトラももとは私らと同じぼんくらです、てめえのうちとてめえのことばっかりのおまえさんよ、というのです、色不異空空意色、てめえの敷居から一歩外へ出てごらんなさい、なんにもない淋しいという、そうじゃない、なんにもない取り付く島もないそれが仏です、仏こそおまえさんなんだよ、よこしまにしている分を自分と思い込んでいる、もとなんにもないところへ色をつけているんです、見聞覚知色眼鏡です、色眼鏡を外してごらんなさい、清々しますよ、ほんとうの清々とは、見聞覚知色眼鏡のあなたです、あなたが色なんです、あなたという思い込みを取り外すんです、真実不虚です。
 坐っていて自分があると思っているんでしょう、自分の内と外がある、ひとまず内つまり自分を色、外自分のいない風景ばっかりを空です。色不異空ですから、内外の垣根を取り除く。
 これが坐禅です、自然になそうが無理矢理だろうがなんでもいいやってごらんなさい。
 色即是空の証明です、なるほどと納得します。一つには虚空=自分以外の風景というなんにもない所へ自分を持って行く、自分と見える、坐って観察している所を捨てるんです、うそなんです、もとあるはずのない自分です。そうして自分=虚空です、淋しいはかない、自分という取り柄一切がなくなる、せっかく喜怒哀楽も失せるという、そのとおりです、棺桶に入るのと同じ理屈です。
 でもこれができなけりゃそりゃ仏教は手に入らんです。
死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき。
 死にきってしまうとすべてが復活します。
 世の中上を向いても下を向いても切りもなしまあこの辺でとかお茶を濁す、座禅らしい格好とかいいことしいの人はどうにもならんです。
 頭のよしあしとかじゃないです、自分はどうもならんと思う人、なにかあって痛烈に悩む人など早いです、急転直下します。
 もとあるところへ帰り着くんです。なにかを得るんじゃない。
 作り物は壊れものです、得るほどにかたくなです。いいですか、仏を求めながらあべこべやっている愚に気がついて下さい。
 色不異空と知る、ある人柱開にも坐っていた、梵鐘がごーんと鳴ったとたん、自分がまったくなくなってしまった、手足を動かそうにもどうもならんふうです。やったあというんでしょう、それを持って師家のもとへ飛んで行った、師家は魂消て大見性だ、大見性だといった。虚空ものみな=自分の様子です、大力量ですか、指一つ宇宙を動かすといったほどに。
 これをまた別の師家に挙した、どんなもんだいといったぐらいです、するとこの人、
「あなたはそんなことを云っているから駄目なんですよ。」
 と云った。
 さてどうですか、たしかに空不異色と大力量のはずが、いったいなぜ駄目なんですか。
 はいそうです、彼岸じゃなくってこっちの岸でした。
「たしかにこのとおりあります、だからどうなんです。」
 と聞かれて、是非善悪の彼岸にあることができますか、善悪の彼岸不可思議なんです、知ることができない。

 どのように坐ったらいいか、是諸法空相、不生不滅不垢不浄不増不減です、是諸法空相ものみな自分が関わらないんです、空という人のかってに空相を思い決めないんです、まっしろけなんにもなしとはそりゃあるんです、諸法ものみなでいいです、形あろうがなかろうがです、形而上のものを仏教は扱わないという、なに目で見る耳で聞く、心に思うだとてそれそのまんま、とやこう詮索したってもとっこ同じなんです、平地に穴を穿つ愚かさというんですが、もとっこ穴を穿つこと不可能なんです。
 いいですか、空とは空観じゃないです、仏教学者の言説は間違っています、言うことなんぞもとないんです、空とはよこしまにしないんです、自分なければ空なんです、したがい自分なしを知る以外、空を知る方法はないです。自分の取り柄なし。たとい学者言説は自分の取り柄分なんですよ、それじゃ無心じゃない有心です、遠くて遠いんです。
 まあこういったって自分を免れがたい、ひとまず内と外、色即是空という色と空とに見りゃいいです。
 自分の外が自分だという、それに見習うのがいいです。
 淋しいなんにもない取り柄ない、そこへ自分を捨てて行く。
 捨て切ってあっち側です、彼岸にわたると彼岸が此岸です、こっちがわになる、ものみな一切自分のものになっている。大死一番大活現成です。
 どうしたってこれをやらなけりゃそりゃ仏教にならんです。
 ただじゃどうにもならんです、無理矢理だろうが四苦八苦だろうが、これを得るより仕方がない。仏はほどけ自縄自縛の縄をほどくにしろ、捨身施虎にしろ、ぽけえ坐りゃ直指人身見性成仏もそう簡単じゃない、おいそれとは手に入らんです。ただ坐ってりゃいい只管打坐といって、命なげうって初めてただになるんです。手つかずの手をつける人もない、只管打坐が只管打坐になる季節。
 諸法空相を知るんです。
 不生不滅不垢不浄と、とやこう能書きいったってどうもなりゃせんです、ものはこうあることを知る、まざまざとこの中に住む以外になく、とやこう自分の取り柄分やっている時と天地雲泥の相違があります。
 わしは破れほうけの文学青年で、どうかしてものを清らかに見たいと思った、師について十年になんなんとする、ある時、
「このごろは見るもの聞くもの清々というかなんといううかー 」
 すばらしいというのをみなまで云わせずに師、
「それはまだものを清らかに見ようとする心が残っている。」
 と云った。わしはようやく気がついた、頭を剃って未だ出家せず、無心の道ではなく有心色の道だったです。その年の臘八にどうやらぶち抜いた、大屋根にふりつもった雪が溶けて流れる、
「ぐわーっ。」
 てなもんです、こっちも流れ下る、
「清々と云おうかなんて云うか。」
 云うことは同じ、内容はまるっきり違う、そりゃもう天地雲泥なんてものじゃなかったです。
 そうですねえ雪舟の絵がよくこれを描く。諸法空相不生不滅不垢不浄あるいは不増不減のビジュアルな姿です。

 坐ったらどうなるか、坐る標準はというと無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法です。これは文字通りなんです、比喩でもなんでもないです、もとこの通り行なわれ今まさにこうあるんです。それを知らないとは、嘘の生活を送っているんです。だからもういっぺんきっしり気がつかねばならない。
 無眼耳鼻舌身意つまり眼がない鼻がない乃至心がないんです。目で見る、見ている、目があるない、どこに目があるという実感はない、もとこれを知る感覚器官がないんです、それを後念の知識によって、目で見る見ていると「知って」いるんです、知っているという思い込みです、見ているこっちと見られているあっちの区別もないんです、では私と他人の区別もつかないかというと、実はつかないんです。すべては生活便利の都合から「というもの」という判断です、なれっこになってそれを実際とする。乃至無耳鼻舌身意です。
 だったらどうなんだという、別にどうってこたない、目がある乃至有耳鼻舌身意の暮らしでいいという、実はいいようでよくないんです、不安心身症病は気からの病気の原因はすべてここから来るんです、うそを云っては道理引っ込む、実際の面白さつまり生活の内容が欠落するんです。
 絵に描いた餅は食えないです、そうしながらそれを知らない、不定愁訴の建築土台ですか。他になにかが欲しいという=人間の始まりです。如来来たる如しではなくなる、楽園追放という身勝手な夢を描く。
 無意という無心です、心はもと一つ自分が意する以外にないのに、二通りする、見ている心と見られている心ですか、これが有心の姿です、ないのにあると思い込んでいる。だって一つきりの心をかえりみることができない、見聞不可能なんです、人間あるものには悩まない、ないものに悩むんです、この辺のところよくよく鑑みて下さい。
 人類総ての問題のこれが発祥の因縁です。他ないんです。
 ぽっと出ぽっと消えるだけの念に取り付く。尾ひれをつける、そうしてそれを心=人間だと思い込む、始末に終えんです。
 故に悟る必要がある、身心脱落の大切さです。おぎゃあと生まれ本来に帰る、如来です、生まれて三カ月ぐらいまでの赤ん坊に、無眼耳鼻舌身意を確かめてみるといいです、耳を知らない耳で聞く耳がどこにあるかを知らない赤ん坊に、パチッと指を鳴らす、通身にぶるぶるっと反応する。目で見る見ている自他の区別のつかないところへ、手を左右する、大人はせいぜい目玉をきょろりですが、赤ん坊は体を左右させる。
 どうしてもいったんここまで戻ってみる必要があります。
 自分というもののなんたるかを知るんです。無心の実体です。風景がそりゃ同じたってまるっきり違ってしまうです、手の舞い足の踏む処を知らず、手つかずとはなんという喜び。
 ある人臘八接心に悟らずんば生きていても仕方がない、生き埋めにしてやろうと云われ、十人ばかりそう云われて穴を掘らされた。十人のうち九人まで行く、自分だけどうもならん、生き埋めにされちゃたいへんといって逃げ出した。石にけつまずいて生爪を剥がす、ぐわあってなもんです、痛いことは痛いんです、だがどこが痛いかわからない。
 光前絶後の事玉露宙に浮く。
 ぼかっとなんにもなくなってるんです。
 
 坐ったら何か特別なことがあるか、以無所得の故にです、奇跡や超能力や神に選ばれた選良意識ではない、群を抜いて益なしという、まるっきりただの只管打坐とは、悟り終わって悟りなしです。これを無無明亦無無明尽と坐る、無老死亦無老死尽と坐るんです。
 われわれは悟った、妄想無明のやからとは違うんだ、くそったれがいうこと聞かぬやつはサリン撒いて殺してしまえという、オウムのような幼い集団はやりかねないんです、でも他の一神教なども目くそ鼻くそ五十歩百歩です、旧教みな殺しの兄弟喧嘩オリバークロムウエルも、行ない清ます聖人だとてやっぱり五十歩百歩です。老獪になって許すふりをするだけなんですよ。だまされちゃいかんです。剣呑です。
 なぜかというに色即是空を知らない、どこまで行っても無明のものなんです、パーラミーターいったん抜け出すことをしなければ無明の人無明を排除するんです、いいわるいの世界です、無明なく亦無明の尽きることもなくという、まるっきり手つかずの自由を得ない、どっか必ず杓子定規です。
 そんじゃ坐禅にならんです。無明の尽きることもなく、いいですか他人の無明じゃないです、そっくり無明のまっただなかです、で無明ってどこにあるんだって聞くんです、知らないってなもんです、無明を免れているんですよ、
「あいつはもう終わった人間だで。」
 という師の誉め言葉を思いだします。
「終わったらつまらんじゃないか。」
 はいつまらんです。どんなにつまらんかというと、今咲いている桔梗の花、ふわっと出会うとたんクワアとわめいていっしょに死んでたりします。
「紫なんてけしからんあんまりひどすぎる。」
 涙流してぶつぶついってるのはあんまり人に見られたくないです。でも大丈夫ドライブ密室。ドライブ密室で大声上げて歌ったりする、こないだ夜通ったら、夜中家路につく女たちがやっぱり歌ってた、アッハッハいいこったなガンバレヨっても云いたくなる。
 無老死亦無老死尽、たといしわたかってみにくい爺だろうが、まったく関係ないんです、人間のありようがこうなら人間のありよう是です、痛いかゆい哀しい痛烈あったって、ひっきょう空に遊ぶんです。
 今用無しになって首くくってもいいぽかっと死んだらどんなに楽だろう、肉体を開放されるサンキュウてなもんです、でも生きていること退屈と楽しいと、しょっちょう遊ぶことばっかり考えて、お盆せわしかろうとどさくさいっぱいあろうと、うんざりというより先に日常なんです、一つ起こって一つ過ぎ、やっぱりぽっかり露の玉の宙に浮かぶ。
 毎日坐りなさい。
 他になんの取りえがあるか。
 人類の仕出かし事なぞ300万年来同じだけの場合数っていうんですか、どうしようもない陰惨も念起念滅なんです、悲痛断腸も一瞬です、生きているとは、
 やがて死ぬ景色も見えず夏の蝉
 蝉のように200%鳴いてごらんなさい。
 いいですか100%じゃまだ自分の皮つら残るんです、色即是空パーラミイターとほうらねあっちとこっち一つこと200%でしょう。
 はいこれ坐禅です。
 坐禅見習いなんてしないんですよ、しょっぱなっから200%です、どっかひっかかりとっかりなを未だしというんなら、そいつに真っ正面向いてごらんなさい、とたんにないんです、そうそう向き合ったこっちがわも共にですよ、楽になったらもっと楽に、底抜けになってワッハッハおわっちまうんですよ。

 どのように坐るかというと、究境ねはん三世諸仏と坐るのです、ねはんニールバーナはだれあっていったんはどうしても忘我ということが必要です、般若波羅蜜多に依るが故に得あのくたらさんみゃくさんぼだい、無上正当菩提です、ぱーらみーたー彼岸にわたりきってはじめてこれを得る、ことのなんたるかを知るんです、百千万の説明能書き仏教如何人間とはなにか等が失せるんです、坐り方をどうすればいいの答えはここにしかない、かつてちらともけいげある、つまりどっかとっかかりひっかかりする、それが完全に落ち切るんです、落ち切る歴史が参禅ですか、次第単純を示すんです。
 ふわっとなんにもなくなるという、どうしてもなんにもないを見つめているものがある、なんにもないからという人がいる、そうではない対峙を双眠するんです、いじろうどうかしようというのが失せる、そうですよ、こっちがわが失せるんです、自覚というまるっきり別世界ですか。
 なんで今まですったもんだしていたという、そういうそれ自体が行深します、ほんとうにまったく無為の法です。
 でもいくら歳月かけようが、棺桶に入りかけてようやく得ようが別段文句云わんのです。
 ハイって云うきりですか。
 三世の諸仏まさにこうあるんです。
 人のありようこれに勝るはないんです、絵に書いた餅じゃないたった一人あっても直きに納得するんです。
 この世にだれ一人諸仏いなくったって唯我独尊です。
 文学詩歌の徒輩が孤独といってあげつらうのとはまったく関わりないです、そういう連中のはただの甘えです。
 孤独孤俊ただもう断崖絶壁です。もとより取り付く島もないです。
 いいですかとやこう云うその自分がまず失せる。
 ことはそれからです。
 自未得度先度他という、この心のうしては導師と云えない、仏教とは云えない、そりゃその通りです、自分のいちばん大切なものを捨てるにいいです、捨てようとした時に既に捨て終わる。今どき修行の人自分という生活安定があって仏を云い修行を云う、たとい二の次三の次です、一番大切が食う寝る安穏だったりしている、だったらそれを捨てりゃいい。でないと得度もなんもない、どこまで行ったって出家してないです。
 一番大切命より大切が仏教ということになって、はじめて修行は修行です、四苦八苦七転八倒も血肉となる、転んでもただでは起きないんです、小悟百遍大悟その数を知らずという、たんびに行深したんびに未だしということがある、あるいは切歯扼腕するんです、事として弁ぜざるなし我こそ仏教第一人者だという、
「ではそれを捨てて他の人の成仏得道のためにしなさい。」
 これが自未得度先度他の心です、思い切ってそうしたとたんにまるっきり失せることがあります、もとないところに下駄を履いていた、それが脱げたというんです。
 苦労もなんもいらない広大無辺、生まれついてのどかんとこうあるっきりです。
 自らはついに仏にならず先度他という、こういうからには仏になることがあるんです、お布施坊主のてめえ棚に上げてじゃないですよ、葬式坊主なんか仏教とは関係ないんです、死出虫稼業だけです。そうじゃないんです、仏になることがあるんです。
 ほんとうですよ。
 これをどう云うたって自分でなってみるよりない、はい仏ですといって他に全ったい提示できるもの。
 菩薩清涼の月畢竟空に遊ぶ、是故空中、無色無受想行識と空の中の空とて提示するんです。衆生の心水浄ければ菩提の影中に現ず、人としてまたものみな一切のこれを受けざるはないんです。

 坐禅は坐禅の為にすという、坐るという坐るっきりになる他ないんです、故に知る般若波羅蜜多、是れ大神呪、是れ大明呪、是れ無上呪、是れ無等等呪、能除一切苦、真実不虚と坐るんです、まったく他なし=自分という一切合財です=自分の入る余地がないんです、虚空そのものになり切るとは虚空をも知らず真実不虚です。さあこのように坐ってごらんなさい、パーラミーターの教えの間違いないことを知る、他にはまったくないことを知る、すべてが尽くされていることを知る、自分のもっとも大切なものと交換して、そうです惜しいとは思わないんです、必要とあらば腕を切って差し出すんです。
 真実不虚と永しなえにこの中に住むんです、能除一切苦です、無上であり無等等であることを自ずからに知るんです。
 もしちらとも能書きト書き説明などあったら駄目ですよ、これを学者師家布教師どもは知らんのです、とくとくとしてたとい感無類とかしゃべくって嘘なんです、嘘とはすなわち現れる他なく、そりゃみっともない醜い人です。
 ぎゃていぎゃていはらそうぎゃてい、have been toです、have gone toです、彼岸にわたるパーラミーターです、ト書き能書きの一切入る余地がないんです。
 坐禅をする人とやこうああだこうだ云ってるひまに坐って下さい、坐禅が坐禅の為にならぬ、人生だの仏教だのとやこうやっている間は途中受用という、では急転直下です、とやこうああだこうだそのまんまです、どんな解決も宙ぶらりん未解決もそのまんま、はいそっくり終わり真実不虚です、虚空というなんのさわりもない大神呪です、即今大明呪です、呪とはもと自分が関わったというほどの、たよりないはかないなんにもないに参じ尽くしてオールマイティです。
 いいですか、世の中に宗教というもの思想新興宗教など五万とあります、一目瞭然事です、キリスト教は邪教であると断じて下さい、はじめから終わりまで間違っています、世界中が巻き込まれて悲惨な目にあって来ました、自国も無惨他国も無惨タヒチやハワイやアマゾンの民や、ひとりよがり押しつけの宗教は、色即是空を知らんのです、彼岸にわたることをしない、無明をもって無明を排除しようとするでたらめです。ついには石油欲しさのアメリカです、三00年間まるきり変わってないです、アフリカ人を奴隷に駆り立ててああ神様という身勝手です。
 ダンテやルネッサンスの巨匠はというんでしょう、そうですキリスト教なければもっとすばらしい詩歌や絵画だったです。
 まったく間違っているのですよ。
 しまい共産主義のカリカチュアですか、キムジョンイルとブッシュと現実を糊塗することはそっくりです。
 仏の子はそんなことしちゃいかんです。
 生まれついての本来があるっきりです。なるべく単純で人為のないほどいいです、地球の平和はどうしたら来るか、そりゃ人類抹殺すれば即平和と、進化のいびつから出て発展するという、脳味噌のそいつにしてやらればっかりです、どうかここらへんで卒業することを考えて下さい。花のように自分を、
「知らない。」
 人になって下さい、知っている分がみな嘘です、醜い上にいさかいのもとです、早く地球のお仲間入りをして下さい、ぜんたいをどうこうじゃない、いいですかたった一人個人です、個人光明となって四惟を照らす、これ仏法です。



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