手で引く線 


 小林秀雄が裸の大将山下清の絵を見て、清君には倫理観が欠けている、カメラ眼のように空ろに見る−芸術とはいえぬ、というようなことをいった。もう四十年も前のことだ。小林秀雄がなくなったら、文芸評論も批評の目もこの世から消えちまったから、何年前もくそもない。批評の目が消えた、なんでもありありの、よくいえば長島世代のみんな仲良くにこにこ、でもって卑怯未練凶悪少年犯罪など、人の心に歯止めが利かないというより、心そのものが蕩けほうける、どうもこうもないってこった。

 清君に倫理観が欠けていたかどうか、たしかにピカソやゴッホやシャガ−ルや、小林秀雄の命がけで対決した連中は、絵描きという以前に人生いかに生くべきか、というより自分そのものの存在を賭けた壮絶な戦い、連中の絵の魅力はそれだ、ゴッホ百億円それを真似た幸福な日本画伯一千万円というのは、そりゃ当然てことある。でも清君の絵に魅力はないか、美しいとはいえぬか。あるいはこれは小林秀雄が、わたしらに突きつけた命題だった。

 十九歳少年のリンチ殺人を今テレビでやっている。見ても聞いてもいられんような。おまけに警察はそっぽ向きっぱなし、一般もさっさと忘れてとか。

 倫理観とは何か、人の痛みを我が痛みとする、それが欠如したらどうなる、赤軍派のように内ゲバやるっきりない。
 空気のように必要不可欠のもの、人間という存在そのもの、個と全体をつなぐ掛け橋、そうさ、それが失せりゃ内ゲバ暴力、めったら傷つけて何物かを得ようという。
 ナチスだって倫理観だ、原爆投下も右に同じ。
 リンチ殺人もスト−カ−も金巻き上げるのも倫理観か。
 少年法で保護されて親の砂糖浸けみたい衣かぶって、やりたい放題、あんなもなぶっ殺すよりない、倫理観といえば、そいつの欠如だ、欠陥車廃棄処分以外なく。

 いやそういうのもいるが、自分を何者かにという欲求を−けんけんがくがくに、裸の大将の絵を差し出す。
 空ろなその目を向けてどうだと聞く。答えが出るか。
 答えが出ない、自分の身は自分で守るっきゃないぜといい聞かせて、それでおしまい。
 個と全体をつなぐ、雨後の筍のような新興宗教−間違ったものはしょうがない、弊害ばっかりの世の中。

 柳生武芸帳の五味康介は、マンガの清水昆と、小林秀雄の口に上った最後の作家だが、音楽好きでいろんな逸話があったが、魔笛はカラヤンが抜群にいいといった。あのころベ−ムやトスカニ−ニや錚々たる連中が魔笛の指揮をとった。たいてい道徳的倫理的な解釈を下す、その分面白くない、カラヤンの半分は聞けるなんてもんじゃなかったが、エ−リッヒ・クンツのパパゲ−ノや三人女の合唱やらさながら天国にいるようだった、その台本の荒唐無稽なんぞどうでもいい、飲めや歌えやでいい、大空の雲のように有頂天、草木鳥獣のように自由自在、なんしろこいつはお祭りだってやつ。

 永遠のお祭りやってたら干上がる。干上がる心配のないのはモ−ツアルトだけ。
 干上がりながら二十歳のわたしは五味康介のとんでも助平小説読んで、カラヤン魔笛説のさすがはと感心した。二十年後魔笛が聞きたくなって、なんとかショップ行ってカラヤンはと聞いたら、あるという、へ−え大昔音楽あるのかって、そいつ聞いたら似ても似つかぬ、カラヤン再度の魔笛という、
「なにこれ、みんな生き埋めになって腐って蛆虫。」
いいや、公害金っけていうのか、もうお呼びじゃない。そか、初演のカラヤン人類断末魔の音楽っていうやつ。
 死ぬ一瞬前の突沸。
 どうしてそうなるかって、はっきりいってわからない。

 ジュリエッタ・シュミオナ−トの声を聞けば昔は人のありとぞ思ほゆ

 NHKでむかし音楽やっていた、J・シュミオナ−トのケルビ−ノあのはすっぱなやつが、時を超えてわたしを押し包む。
 あったかい血の通う人間、いやそういう空間。
 なんといったらいい、1970年代以降、歌手というより歌うマシ−ンになって正確で美しいといって、板っぺらのようになんというかあの世行き。

 小林秀雄もその評論にある近代絵画も断末魔の一瞬。
 行きばっかりの帰りなし袋小路。
 絵といえばタレントのものした絵。

 フィレンツェの手料理となん君もしやポテッツェルリの春の如くに

 ふたたび蘇るにはまっ先に倫理観。
(西欧人は罪の意識、日本人なら恥を知る)そういったってお題目にしかならないか。個と全体の掛け橋、人の痛み、地球の痛みを我が痛みと知るこれ第一歩、そんなの麻痺しちまうってね、麻痺しない方法ならわたしが示すことができます。いつでもたった今生まれたように、アフロ−ジテの処女の泉よりたしかって、わっはっはそういうやつ。これ如来というんです、如来来たる如し、 観音さまともいいます、地球宇宙のはてに一音、なむかんぜおんぼさつってね。
 もっとも西欧デカタンスは日本には関係がない。

 リズムの言葉ってかアルファベットじゃない、漢詩が時代に左右されないように、日本の詩歌もどうあろうがその本来性を所有するんです。
 自分の感情発意の赴くところじゃなく、詩歌言葉の与えるところへという、一八O度の方向転換が必要です。
 そこからしか始まらない。
 絵画なら一本の線を引けるかということです。
 器械ではなく人間の手でです。
 あっはっは、コンピュウタ−時代に逆行、だってもさ人間の楽しみって強烈一つっこと。


戻る