西行
実際に西行に出会ってごらん、つれづれ草にあるように、なまじっかの人間はぶんなぐられる。わたしの云うにはたとい道元禅師もどうかという、一休も西行にはかなわんと云ったほどに。
その歌の壮大は後の世の人及ぶべくもなく、実朝芭蕉に至ってわずかに匹敵するんです。
心なき身にも哀れは知られけれ鴫立つ沢の秋の夕暮れ
風景がどうしようもなくその目を押さえるという、絵描きについてはそのようなことがある。これを表現せずにはいられぬ。楽しいとかそんなもんじゃない、恐ろしいことだ。芸術も詩歌もない今様人間には無関係かも知らん。売らんかな銭になりゃいい。ところがかつては真人間がいたんだ。
風が吹きゃうそぶき歩かずにはいられん人、どうしようもないのさ、自然というまったく自分という、不可分のこいつがどうにも収まり切らん。わかっちゃいる、わかっちゃいるけど妻子仕事ほったらかし、うそぶき歩く他ない。
あたかもそりゃ歌という言語を仮りて、自然がうそぶく、声を発するに似る。
たとい西行なんていい面の皮だ。
どうしようもないその我を西行は許さない、仏の道からも世間道徳からも不是、じゃどうすりゃいい、そうさ感動も哀れも不可だ、てめえ非道の者ものを感ずる能わず、心なき身とはこれがこと。
しかもどうふんじばったって、石っころになれったって、悲しい哀れの風景一木一草のまっただなか。
その葛藤の中のこれ。
西行に比べりゃ今様俳句だのなんだの、およそ言葉にもなんにもなってない、ただのかす、ごみっさら。
これを知るもの一人半分出て欲しい。
世の中万ずの荒廃これに帰す。
ここもまた我住み憂くてお去りなば小松は一人にならんとすらむ
どうしても一所不定住、住めば住み汚す、たといどこをうそぶき歩こうとも、まるっきりまっぱだかの西行法師が、赤ん坊のように泣き笑いする、どうにもならない、世のつながりとは、二三すれば自ら追い出され。
たいてい人みなこうであったって、西行みたい一生やってるやつはいない。
とてつもない巨人だ。
二十歳のころ西行と云ったら、額に汗して働かないで、うそぶき歩く国賊だ、人間のくずだとだれか云った。良寛についても同じ返事だった。
共産主義という、常に答えのあるあんちょこ思想、思想となどほとんど云えぬ、今にその末裔わんさかで、歌はいいからいいんだ、音楽だコンサ−トなどやっている。なぜ歌がいいんだという、至極当然の考えに至らぬ。
思考ストップというより、ただの石っころだ。
てめえ石っころと決めつける西行、石っころにもなれず。
常に答えなし、わからない、答え=自分であったという答えをさへ出さない。
これどういうことかわかりますか。
もしわかったら、たいていまあてめえ目下の生活の無意味に、首括って憤死ってとこ。
日本伝統詩歌がなぜに旅にあるのか、
「まさに答えのないこの答え」
にあります。
現代俳句と芭蕉を比べると、一目瞭然はここにある、膨大な俳句歳時記の中にふっとささやき声が聞こえる、
よく見れば薺花咲く垣根かな
芭蕉は垣根の内に住んで江戸のヒエラルヒ−やってないんです、無一物のふりしてうそぶき歩いて、ふっとなずなです。
これを西行の風と云う、ふんわたしが名付けたんだ。
風が吹かない詩歌なんてアホくさ。
ただのがらくた、夢の島の悪臭公害。
でもさ、もし万が一にもこれに気がつく人がいて、西行の風を身につけようとする、とんでもない苦労の末になげうつ。
「こりゃどうにもだめだ。」
という、自分は虫けら、西行のわらじの紐にもとっつけぬ。
さらに心の幼びて魂切れらるる恋もするかも
よく耳を澄ませて聞くんです、あなたの手にあるのはビニ−ルのなまくら刀、西行の手にあるは精妙吸毛剣。
誤った宗教ほど恐ろしいものはないんです、人間独特の凶悪犯罪、たとい魔女裁判もやられたほうはたまったもんじゃない、たわごと云ってるんじゃないです。
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