日本語


 山本健吉の芭蕉という本が出て、くりかえしくりかえし読みました。すると日本語の伝統というのが、実にたいへんな代物で、もうとにかく俳句を作ろうと思って四苦八苦したですが、どうにもこうにもならなかった。
 一つには言葉そのものの問題なんです。花といえば、花にまつわる感情というんですか、自然の感情、生活体験と、10〜20ほどの古歌をもってこれを代表するなにがしかなんです。もっとも花の場合は、さくらさくらの歌だって十分なとこあります。虫といえばこう、草といえばかくかく、雪月花みな一定のものがあって、西欧文学的思想一神教的伝統とは一線を画するというより、個人の自由な感情からすべてを網羅して、雪月花なんです。他にないんです。これ川端康成がノ−ベル受賞講演に引き合いに出した、
−春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける−
という道元禅師の御歌、日本人の心という一端です。他の一端は道元禅師そのものだったです。
 つまり日本の言葉を用いようとしたら、どうでもこれを覚えねばならんです、記憶と分析じゃだめなんです、生活感情と必然的に起こる批評眼です。

−憂き我を淋しがらせよ閑古鳥−
 たとい芭蕉の句ですが、憂さとはどういうことか、浮き世憂き世という、人間一生の、南閻浮台といわれるこの世の無惨さ辛さ、救いようのなさの実感です。それ故に仏を求め極楽浄土を願う一連です。芭蕉はというと禅風なんです。まずこうあって、次に憂さというと、肉欲色欲我妄によって起こる鬱陶しさ、心の重さといったらいいんですか、若者の今昔変わらぬ憂さといってもいい。憂さ−鬱陶しい自分を淋しがらせてくれというんです。迷っている自我に埋没するふう、オナニ−でもやりそうなってとこあります。淋しいとはこれを去るんです。浮き世のしがらみから自由になる、淋しいといって、しなくれるんじゃない、より力強くがっしりと、これを閑寂の閑といったんです。道元禅師を代表とする日本の心といってもいい、ここにおいて人がつながる、暗黙の−自明の理のコンセンサスがあったんです。閑古鳥とは鳴き声から来ています、かっこうのことです。時鳥系の鳥に、古来日本人は数種類の感情を代表させて来ました。これはその一つの使い方です。

−うきわれをさびしがらせよかんこどり−
 圧倒的な力強さは、そのリズム感、また言葉のめいっぱいの幅にあります。そうして芭蕉が脇見運転ではない、まっしんに坐っている、人生=世間=流転三界そのものという真情にあります。
 たった575が詩として世界に冠たる所以です。
 でもね、その発声するところ、訴えるところのものは、モ−ツアルトもシェ−クスピアも、いいやねこしゃくしだれであったって、洋の東西を問わず同じなんです。スタイルの違い、そのまあよって来るところの多少の別はあっても、かっこうはかっこうと鳴き、卯の花は卯の花とて咲き誇るんです。
 でもこれの共通語を理解しないと、歌一首作れないってことがあって、芭蕉でさえこれを用いるようになるまで十何年もかかっています。
 いいわるいをいったって、これどうしようもないんですよ。

 じゃそんなもの捨てちゃえといって、明治以来自然描写といってやって来て、結果現在の閉塞社会です、伝統とはそういうものなんです、崩れたら一民族滅ぶんです、だめになったら新しいものを生み出す以外にない、あるいは旧に復帰するか、これ大変な作業なんです。
 言葉とは基本技です、使えるか使えないかとは、なにをいっても自分こっきりになるか、外へ出るかの問題があります。でたらめな言葉がでたらめなり生きている、美辞麗句が死体だったり、四苦八苦するさまがたとえようなく美しかったり、平穏無事が悪意そのものだったり、たといなにいっても一目瞭然てことあって、知らぬは我が身ばかりなりってね、思い切って何か一つってことからだと思います。
 黒沢明は映画人の中でたった一人映画を代用品だと知っていた人だとわたしは思います。映画の本来性というものが、ついに未発見に終わるといったらまた、おおかたの顰蹙を買うんですが、映画より絵のほうがよく、それより実際のほうがよくと、平たくいえばそんなことですか。
 黒沢明の作品を辿ると、彼自身=彼の世間の変遷というものがよく見えて面白いです。どですかでん以来、世の中心理学の対象物、つまりはどっち向いても気違いばっかり。
 気違いにならん、ほんらいただの人間になっておくれ、目下それだけだって大事業ですよ。


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