モ−ツアルトk465 


 弦楽四重奏曲ハイドンに捧げるとなっているので、ハイドンセットと呼ばれるうちの最終曲、不協和音とあだなが付いている。恐怖の不協和音、あまりに優しく美しい、人を破壊するほどの豊穣!極めて完成度が高く、ハイドンセットの他の曲が、今はそう満足の行く演奏は聞かれぬのに、k465とk614弦楽五重奏曲だけは、たといだれが−どこが演奏してもそうは違わぬ。人類の所有する最高峰の芸術作品のまた筆頭に挙げられる。
 わたしには痛烈な思い入れがある。

 ハイドンセットはモ−ツアルトの天才少年から一個の大人に生まれ変わる、産みの苦しみそのものというには、のびやかに一回的に見える。だが生涯を通じてのびやかに−まったく他の作家の追随を許さぬ、たとい人間という野のけもののように一回的といえる。
 SQ14〜19の一連、始めて自分の足で大地を踏み締める喜びに似て、音楽という=人生という大森林、その優しい原野を心行く歩んで行って止む、行ったら必ず帰って来る、
「そうさこれが僕だ」
という、たった今発見する、そうして後をすべて、歩いて行ったところに我あり、とはまたなんという幸せ、なんという不幸、人間から余計な皮っつらすべて取り去って、肉は悲しという、喜怒哀楽思想困惑という、分厚く奥深いその肉そのもの、まさにその標準がk456であった。

 どういうことかというに、古代ギリシャ(オリンピック優勝の)月桂冠をかぶる青年のように、全幅の信頼をその所属する世の中に置く。
 すなわちモ−ツアルトのこれは成人式であった。
 その正反対というべきものが、現代日本の学級破壊的成人式に違いない、貧相身勝手不形容しがたい支離滅裂、およそなんにも生み出さぬ。
 自然のにおいがない、ではすでにして幸不幸のハンチュウになく。

 no19に至る、モ−ツアルトは実に入念に(我について、人生社会また異性について神について−)という必至の命題をくりかえしはしない、まさに直面する、面と向き合えばそれは答えであった。
 ハイドンセットを聞いてみるといいです、こんな特殊な音楽はないです。
 こんな魅力的なものもないです。

 日本人は四季の風景と置き換えりゃいいです、青春が満面に蘇る、とつぜん一木一草が意味を持つんです、そうして自分という存在がある、これは現代人にとって、とてつもない体験になる、かつては自分という存在、他には考えられなかったはずなのに、我思う故に我ありのダンデイズムより先にです、そりゃ当然のこと。

 倫理とは何かと問う人がいます、道徳とは何かという、禅門の答えは=心です。他にないんです。どういうことかというと、心に二心あり、従前の心と本来心と、といいます。今答える心は本来心のほうです。
 本来心とは我のうして手に入るものです、忘我といういったん失せきって、我と環境の同一化−我と有情と成仏です。
 つまり心=木の葉でも大空でも手に持った茶碗でもです、というと知らぬ人は殺伐の思いをする、そうではないんです、たといモ−ツアルトがどんなに精妙を尽くしても及ばぬ如来の風景−もとあるがまんまです。
 今これを思いついでモ−ツアルトの成人式です、我と我が身をどうすべきか、これの答えが成人式です。
倫理的にいえばどうなるか、道徳を完全に守ることが最良か、いいや道徳なんて杓子定規はいやだ、それよりもっと直かにということがある、神を信じ神を信ずる人を信じ、真善美をもって通身あげて帰属社会に奉仕すること。今の人こんなこというとせせら笑うしかない、けれどもせせら笑いも結局出自はここだ。  

 全幅の信を置きたい−どうしてもそれができない。
 ただこのシ−ソ−ゲ−ムがあるきりです。だって人間は人の間なんです。100%人間でありたい−でもそうは行かない、のシ−ソ−ゲ−ムです。
 人間また宇宙そのものという悟のないかぎり。
 モ−ツアルトは倫理も道徳も神でさえ透過した。音楽がその習熟がそうさせた。
 個人と全体の同一、いきなりここへ持って行ってk456。
 真善美という、西欧精神の理想をたるものを、鉄砲でぶち抜くように実体化する、どうしようもこうしようもない、
(美というものの正体)
k465を聞いた人が手にするものこれ。
(それは人間だ)
なほかつスフィンクスの答え。

 わたしの成人式はモ−ツアルトのハイドンセットをたどる、k465を聞いてちょうど目の前にあった菊の花が、一人の人間になって−限りなく美しい、立ち現れた、ふっと微笑んでとつぜんあたりがかすむ、かすみではなく、部屋も机も壁も−砂になって崩れ去る、絶叫してつったちつくす、三日三晩一睡もしなかった、ちらとも微睡めばフィンクスにぱくっとやられる、恐ろしいそやつと取り引きした、なにをどう取り引きしたのか覚えていない、かろうじて生き残った、白髪と耳鳴り。

 モ−ツアルトにはたとい信を置くべき社会と、就中習熟した音楽があった。わたしにはなかった、ただそれだけのことだ。でも一生を棒に振った。
これを修復するのは容易ではなかった。
「朝四本昼二本夕三本な−んだ、それは人間だというのです。」
師に挙すと、
「それはなんの謎も解いたことにもならない。」
まだ残っているといった、
「そうか。」
とわたしは思った。


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