文芸復興
まず自分という架空を、うそっことを免れること、色即是空とは、色眼鏡を外して見る、空即是色とは、知らずのうちに囲いをしている自分という、それから一歩踏み出すんです、広大無辺です、まずこれを心行く味わうんです、もう死んでもいいっていう位、すると世界歴史人類宗教とか、ぜ−んぶひっくるめて、オレの方がいいやっていうんですよ、実はだれだって、オレのほう大事なのに、はっきりオレだっていえないでいる、文芸復興とはまさに、ほんのちょっとしたそれなんです。
心強い味方を待ってますよ。
以下は二三のノウハウです、たとえば絵を描く人には、線を引いてみたらどうですってね、写真や引っ掻き傷や定規の線ではなし、一本の線、昔の画工のやったやつですよ、写し絵ではないポテッチェリの線、アルタミラ洞窟壁画の線、できないんですよ、これが、なぜかなあってね。
それから、古池や蛙飛び込む水の音ってね、我国詩歌の伝統の池に、桃青芭蕉は十年二十年四苦八苦の末やっと飛び込むんです、俳句という、歌を正当とすれば、みにくい蛙ってね、でもって音が聞こえるんですよ。俳句歳時記ってあるでしょう、膨大な江戸時代〜現代にいたるまでの五七五です、頁を繰って行くとふっとささやく声が聞こえるんです、
よく見れば薺花咲く垣根かな
決まって芭蕉なんです、たいてい他の一切が無音です、へんです、言葉の機能をはたしていないんです、差別用語でいえば、おっちでつんぼなんです。
どうしてかなっていうんです、続いて飛び込む蛙なし、五七五のその構造が違うんです、どうです、一つ作ってみませんか、声の聞こえる詩歌です、まっすぐです、わたしがあって、相手がある構造です。わたしを無にすると、できたりするんです。
文芸復興ってね、まず古典をおさらい=真似ることから始まるんです、できそうでなかなかできない。
古人の杉のさ庭ゆしくしくの雪霧らひつつ春は立ちこも
あけぼのの春は立つらく大面村田ごとの松を見らくしよしも (いちめんの雪なんですよ)
わたしは能無しで以上の歌を作るのに、十何年かかって、でもってはて文芸復興って粋がっているのは、自分だけだったりして、−
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