禅は自我を脱する方向
麻原彰晃という人はでたらめっていえばそれまでなんです。禅は自我を脱する方向です、ついに脱し去るんです、彼は自我の延長上にあり、こけおどしの道具立てに自らのめり込んで、ついにヒットラ−です、人をこの世を支配しようという、幼い自我のまんま、ガキのはた迷惑にのしをつけるんです。
間違えないで下さいよ、いくら禅だの悟りだのいったって、そりゃなんの関係もないんです。そりゃ人間のやることだから、どっかでつながっているといったって、彼の方法で、最終解脱とかいっても、メカニックとして無理なんです。
こういう公案があります、高い木の上に上って、足をはなせという、足をはなして両手でぶら下がった、手をはなせという、はなしてもって、歯で噛みついてぶら下がっていたら、下に救いを求める人が通った、法を説けというんです。
これ参禅の道です。
最後の最後、
「これっこっきり。」
と噛みついているところをはなす、まっさかさまと思いきや、虚空にぽっかり浮かぶんです。
そうなってから、神や仏を問うてごらんなさい。すべての人間にとってどうのという、ぜんぜん質問になってないことが解かりますよ。
心して狭き門より入れというでしょう、いいですか、狭い門から入ったら狭いっきりです、そうじゃないんでしょう、もとどっぷり漬け、おぎゃあと生まれる以前から入りっきりなんです、それを洗礼だの割礼じゃないんです、無門関といいます、入りっきりの自分に気がつくんです、あるものしかないってことです。余計ことじゃないです。
またこの法は殺人犯だろうが強姦魔だろうが、もしほんとうにその気になれば手に入ります、心というものが、たとい何あったって傷つき痛まぬことを知るんです。不生不滅、不垢不浄、不増不減=心です。
でも死刑は死刑だし強姦罪は強姦罪です、これは社会の約束ごとです、改心したからどうのってんじゃないんです。
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