座禅の方法


 座禅の方法はまったく単純ななもので、心意識がさまざまに出る、妄想です、その内容によらない、どんないい考えもわるい考えもです、それをそのまま手つがずにしておくんです。
 手を付けると、どこまでも妄想発展であ−でもない−でもないどうのこうのとやっている、あるいはなにをどうすべきとお仕着せしたり食み出したりです。
 世間一般にはこれを思想といい、自分は〜であるからとやる。
 仏教−座禅はこれを取らないんです。
「心意識をぽっと出りゃぽっと出たままにしておく」
 これだけなんです。他になんにもないんです。
 結果どうなるかというと、
「心意識から自由になれる」
ということです。言い換えると、
「自分が自分の奴隷にならない」
ということ、よくお考え下さい、たったこれだけがすべての問題に解決を与える−一切解決済みの実感です。
 神についても仏についても、
「明白」
ということがあります。
 明白とは、もとこうあってこうなったっていうことがいっぺんに分かるんです。
 ところが心意識に手を付けない、たったこれだけがなかなかできないんです。
 只管打坐というでしょう、
「ただうちすわる」
ということです。ただではただにならないんです。たいていの人ただと云っては、自分に手を付けるんです、手をつけないといっては、自分を眺め暮らす、ちょっと坐ってみるとその風景が見えて来ます。坐らない人はごたいそうなこと云うけど、どうもおいそれをは行かない、わずかに自分という爪から先がさっぱり云うこと聞いてくれん、どうにもこうにもなんです。
 だから解脱といい悟りといい身心脱落というんです。
 くんずれほんずれの自分から、抜け出す解脱ですよ。悟りとは知るっていうこと、心意識という自分の生み出したものにしてやられない自分です、これを知るんです。清々さっぱりの100っ万倍ってなぐらいさっぱりします、だから身心脱落なんです、自分というたが外れて本来人です。
 どうしてもノウハウが必要です、ノウハウってね正師です、先に行った人です。
 こりゃしょうがないんです、ことは自分が自分にかかわる、てまえ判断が利かないんす。
 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。
 さしあたって道元禅師のこの語をよくお考え下さい。なぜに自己を忘れねばならぬかということです。
 自分を観察するもの何、ということです。神仏ばちあたりの問題一切を含みます。


 戻る