坐禅が坐禅になる季節


 禅語も漢語ももとないんです。どういうことがあるかというと、自分が自分に立ち返るということです。他一切ないんです。自分はいつだって自分だという、でもうそっことです、今日も法事に行って、弟子に云ったことは、
「いつまで真似っことのお経を読んでいるか。」
ということです。鶯がホウホケキョと鳴くでしょう、蛙がケ−ロと鳴くでしょう、同じにあるいはそれ以上に鳴いてみろっていうんです、通身に、全身全霊を挙げてというより、ただ鳴けばいい、もしこれが出来たら、座禅なんてことまったくいらないんです。わかりますか。

 春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりける
 自然というでしょう、そうではないんです、自然と人間という二つじゃないんです、鶯も烏のかあも自然という別ことを知らないんです。もと一つことです。
 一つことになった時、ほんとうっていう実感です、生きているって始めて味わうんです、もう死んでもいいってくらい、一OO%二OO%です。

 お釈迦さんは、生老病死苦という難問を解くために、王子の身でありながら、妻子を捨てて出家します、生老病死という、人生いかに生くべきかという、いえどんな問題でもいいんです、
「どうしたらいいか。」
と、こうほんとうにあるんです。   
 諸方尋ね歩くんです、おそらく思想宗教乱立して、今よりもっと複雑怪奇な世の中だったんです。Aのもとへゆきaといえば、Aよりaになった、Bのもとへ行き、bといえばBよりbになったんです。思いつくかぎりをお釈迦さんは試みるんです。そうして、 
「おまえもおれと同じになった、いっしょにAをやって行こう。」 と云われて、はてなっていうんです、
「自分はいったいなにか=生老病死苦です。」
 という疑問が氷解していない。さっぱり満足しなかったんです。 すべてを尽くすんです、火責め断食もどうもならん、ついに刀折れ矢尽きて、ガンジス河の辺に坐るんです。
 菩提樹下という木陰です。
 なにをしたってどうもならん、どうしようこうしようの心がまったく失せているんです。
 
 座禅の形は古来からあって、鼎の形に体を支える、他どうやたって支点は一つなんですよ、もっとも長時間自在なんです。いいですか、お釈迦さんのこれが只管打坐なんです、矢尽き刀折れる、
「すべてを尽くして、自然(じねん)に手も足も出ない。」
という、だれだってまったく同じに、仏祖師も私らもです、ここを通るっきりないんです。
 手も足も出ない、ほんとうの自分です、はじめて自分こっきりなんです、あ−でもないこ−でもないの、他人の物差しを仮らないんです。

 実に参禅とはこのことなんです。
 正師につけとはこれをいうんです、邪師は必ず付け加えるんです、仏教を云い、禅問答です、よく聞いていると「あれ。」といいます。正師は奪うんです、取っ払う、余計ものはいらない、早く真っ裸の、生まれたまんまの自分に戻って下さい、放てば手に満つ、もとっからあるんです。「これ。」というんです、これといって気がつくまでです。
 お釈迦さんはこの過程をたったお一人でやったということです、ぜ−んぶ引き算、教えられること、つまり外から入る物じゃさっぱりってことです。作りものは壊れものってことを、十何年もかかって知るんです。
 そうして坐っておられた、忘我です、坐っているとやこう、それを観察する自分がない、まったくなんにもないとは、なんにもないって知ることができない、忘我とはまるっきり無ですよ。

 たまたま一念起こるんです、お釈迦さんの場合は、明けの明星だったんです、おそらく一OOtとんかちでどっかん、こりゃ自分でやってみるっきゃない、明けの明星っきりになるんです、弘法大師が四国の山中で修行中に、星が頭の中に入ったという、そんなちゃちい−不完全燃焼じゃないんです、それを司馬遼太郎は、宗教人のいうことはわからんなんていってるけど、もっての他のことです。
 人間生まれたまんまのありようですよ。
 
 無眼耳鼻舌身意−つまり自分という、体も心もまったくないのに、ものみな一切がある、
 我と天地有情と悉皆成仏です。
 もとへ帰ったんです、仏教ってたったこれだけなんですよ、不思議にまったく納まるんです、人間の妄想=生老病死苦がいったいどうやって発生したか、それによってどうこんぐらかりコングロマリットであったか、もとの木阿弥になった一瞬に手に入るんです、他の方法じゃたとい百万語費やしたってだめなんです。そういうもとっからのメカニックです。
「そうか我らはもとなんにもしなくってよかったんだ。」
というんです。
 当然です、なにかしなけりゃだめだってんなら、この世に生まれ出た意味がないんです。

 そのよかったっていうのがね、なまじのもんじゃないんです、三七二十一日の間お釈迦さんは、うれしいっていうんかね、ほんとに一木一草手にふれるものみな、
「いいなあ。」
としかいえぬのが残念です、みんなおらあがん、極楽だのなんのってこっちゃないです、浮かれ歩くってでもないです、なんにもいらないんです、でもってオ−ルマイティ=自ずからです。
 で、もう死のうと思った、宇宙この世の中喫した心残りはない、おまけに元の木阿弥のなんにもないの、人に説いたってしょうがない、だって、
「らしいこと。」
 なんにもないんじゃ商売にならない。

 観音さまが現れて他が為にせよといった、そうしてお釈迦さんの四十年が始まったんです。
 みんな「らしいこと」なんですよ、仏教を求め参禅し、だからどうだとやる、いいですか、かすなんです、仏教二千年歴史の垢です。 参禅のいろはのいは、
「らしいこと。」
 をかなぐり捨てるんです。
 実に単純な勇気です。
 お釈迦さんに仏教なぞなかったんです、ましてや禅なんかないです。
 思い切ってお釈迦さんになろうって人が欲しいんです。
 なにたいしてかからんですよ。
 三カ月もあればたいがいって、一瞬で足ることあります。
 お釈迦さんて、ただの人です、おっそろしない化物にする、まずそういう「らしさ」から開放されるんです。時代とか思想とかによらないんです、縄文人になりたけりゃなりゃいい、
「そんなけちなもんにならないよ。」
 というなら正解。
 坐禅が坐禅になる季節。



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