座禅・凡人・別格の人
これ云わずにいられんのは、「凡人に禅の坐り方ができないのは当たり前、とにかく坐れ。」
という語です。
座禅はむずかしいものじゃないんです。難しいものにすると難しくなるんです。坐ってなにがどうなるといって凡人も別格の人もないんです。五体こうあって心といい五感というこうあること、だれあって変わるもんじゃないです。
坐って自分を眺め暮らすという状態を、静かに坐っている、あるいは妄想煩瑣という、双方同じなのにそういっている、その延長上に星を目印なんです。まずもってこれに気がついて下さい、これじゃ百年河清を待つなんです。
座禅とは座禅のノウハウなんです、手つかずの工夫といって、これだけがあるんです。自分とは一つっきりなんです。自分といってみとめるときに二分裂です、忘我によって始めて一つ体験です。実にこの間の工夫しかない。
他のこと何をしたって同じだ、思想思念わがままの河を濁すだけだと知って、ついに座禅という、別格大力量をいうなら、むしろここに至る過程です。
ガンジス河の辺にあって忘我するのに、手間暇いらなかったです。
すべてを尽くしてなんの取り柄もなく、あるいは取り得るものはなんの役にも立たずの実感です。なんにもしようとしないんです、元の木阿弥です、自分に手をつけない、次第忘我です。忘我しているときそれに気がつかないんです。たまたま明けの明星です、はあっと一念起こるんです。すると自分というものまったくなくって、ものみなあるんです。星が向こうにあり我こっちにありの、通常概念じゃない、明星が自分なんです。
「我と有情と成仏。」
人は生まれついて、いいやものみな生まれる以前からこのとおりの実感です。
三七二十七日の間、喜びの中にあったといいます、如来来たる如しです、それを徒らに手をつける、能書きして自分が自分に首を突っ込む、なにをどうしなけりゃならん、凡人はどうの仏教は云々、いらんことしなけりゃ満ち溢れる喜び、そういう我らの存在だというんです。
これねえ過去のこっちゃないです。頭のよしあし環境の別なく、そうねえ、わたしどものところでは、平均三月も坐りゃあ、
「あらっほんとだあ、おれと風景−こっちとあっちがわの区別ない。」
ってやってます。こうしてINだけでもそこここ忘我の人います。どおってことないんです、人間もとっこそうできているんです。
難しくするのは、仏教といい成仏といい悟りという、2000年来歴史の垢なんです。お釈迦さんを怪物に仕立て上げて、いやわしらはとってもというんです。座禅というなにかしらイメ−ジングをして、凡人にはとってもというんです。大悟徹底ヒヤ−そんなこと思いもよらんて、噂がうわさを呼んでるってだけです。
そういうこと止めたら、もとっこ座禅するのは自分一人です、強いていえば身心のメカニックがあるだけです。
お釈迦さんがかくの如く示す、はいわかったといって菩提樹下に坐せばいい、日頃の習慣が失せるに従い忘我です、習慣が気にかからなくなるんです、たいして手間取らんです。むしろ忘我を得てそのあと、ほんとうにお釈迦さんかという、そっちのほうが問題です。バカんなってやって行けるかってことです。
座禅が座禅になる季節、坐っているでしょう、すると実になんにもないんです、体のない実感です、無眼耳鼻舌身です、そういう感覚器官もとないってだけなんですが、無意、心を観察するに心なし、だって心一つなんです、そうしてついに忘我なんですが、な−んにもないっていう、なんともすばらしいんです。
普通な−んにもないっていうと、な−んにもないを見つめているんでしょう、そりゃないんじゃなくあるんですよ、つまらない、そうじゃない、群生の永えにこの中にありという、ものみな一体感なんです。
座禅とはこれ一通りしかないんです、他のさまざまはそれ失敗なんです、たんに「そういう自分を見つめている」ということです。
戻る