中庸


(自分は一人で生きて行くわけではありません。他人と接し会って生きて行くわけですから、自分だけに通用する価値観を生み出してもこれまた厄介なのではと思います、中庸が一番なのでしょうか。)

 仏教はこれに十分お答えできるものです。
 暴れん坊の孫呉空が、世界のはてまで飛んで行って、柱が五本あった。そこへ名まえを書いて帰って来た。どんなもんだといったら、観音さまが掌をさし出して、これかいといった、ご存知西遊記の一節です。
 どういうことだと思います。

 どんな価値観、観念思想だろうが、たとい戦争も平和も、歴史哲学イデオロギ−宗教という、とらわれ振り回す−振り回さない、あらゆる一切が、観音さまの掌の上っていうんです。
 人間のやること、場合の数決まっている。
 たとい二十一世紀だろうがさっぱり変わらない、価値観とは何か、時処位というんです、その時その時です。
 今の世こうだから、戦争は悪いだからとかいって、一を取れば他が見えぬ、是非善悪、どんなよかりそうなことでも、囚われてはならぬ、それにぶら下がったらおしまいだっていうんです。

 色声の奴卑と馳走すという語があります。
 色声とは観念知識、価値観思想という、もと人の生み出したものです、あるとき必要であり、あるとき不要であり、一多の際というんですか、功罪かならずある、ばかと鋏は用いようの、その鋏なんです。
 その人間の生み出したものに、生み出した人間が振り回される。
 鋏に振り回されるばか−本末転倒事。

 どうですか、ふだんわれわれのやってることみなこれでしょう。
 卑しい奴隷になって、あたふた走り回って、人を傷つけ騒ぎを惹起こして、しかもそれに気がつかない、自分が戦争の原因なのに、戦争は悪い平和がいいとか、平然といっている。
 なぜか、価値観が主人、価値観を見極めるはずの、こっちが客だからです。
 そんなことあっていいはずもないんです。

 中庸とは何か、中庸なんてあるわけがない、自分とものみなとこうあるだけだ、世の中の思想分別は一片の木の葉に及かぬとは、思想分別たといどんな天才の生み出したものまで、観音さまの掌と知って、三つの幼子のようにまっさらに見る目です。
 人は百人百様あるという、人から思想宗教価値観をさっぴいたら、さっぴかなくっても、みんな観音さまの掌っていう、百人百様の面白さが残るっきりでしょう。
 だれの家にもずぱっと入って行って、いらん手続きがない、和南すというんです、和尚というこれが本来の意味−ただの死出虫稼業になり終わったり。
 そうしてこれを知るには、いったん自分というものを去る、観念知識に囚われる、そのど真ん中を失うんです。忘我の方法です。
 観音さまって、別にあるもんじゃない、あなたそのものだっていうことです。
 これに気がつくのに、いいの悪いの観念知識じゃ、百年河清を待つ、どうもこうもならんということです。
 
 だから仏教のこの事は、常識の至るに非ず、むしろ思慮を容れんやという、もとっこの自分、生まれついての観音さまに帰る、へたな考え休むに似たりです。
 この故にむかしっから、思想とか他人の物差しに愛想つかした者が入る、無門の門。
 あるいは、ぎゃあぎゃあいってないで一つこと、ほんとうにやろうとする、ついにはこれっきゃないんです。


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