ちらとも


 ちらとも自分をはなれると、その分だけ喜びがあり自由がある理屈です。自分とは自分という思い込み、自分という自縄自縛の縄なんです。ほんとうの自分は手つかず大自在にこうある、そうと知ることが先ず第一。では自縄自縛の縄をほどくには、どうすればいいか。ああもしようこうもしようという、考え方、こう気がついたどうのという、これみんな縄の一種、ほどくんではなくって縛りつける。仏教はどうかといって、せっかくの仏教も荒縄にしてがんじがらめ。

 そこで坐禅のように、吐く息吸う息のまんまにうち任せという方法があるんです。手つかず本来です、しばろうとする諸縁を休息する、もとあるものに帰るんです、只管打坐という、まるっきりただの工夫です。
 じきにこれ、とやこういっている、あ−でもないこ−でもないやっている間はだめだと気がつく。
 空手故郷に還る、眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。

 今ここに、室生犀星の詩があります。
 故郷は遠きにありて思うもの、
 そして悲しく歌うもの、
 よしや、うらぶれて異土の乞食となるとも、
 帰るところにあるまじや。

 百人が百人おそらくこういうことかと思います。空手で帰って行けるはずの故郷は、錦を飾らないとさあてどうなる。
 うらぶれて異土の乞食となる、そんなのいやだっていう一人二人。
 (故郷を遠くにみて悲しく歌う必要のない)方法です。
 だってどこだって住みゃ雪月花、だんぜんな−んにもいうことない。世間付き合い世間付き合いに任せ、てめえ取り柄と来たら、目はよこ鼻はたてにくっついて、でもってどんなえらいの来たって、だまされもすかされもせんていうんです。
「世間そんなこといわないよ、第一それじゃ悲しい歌うたえん。」
 とかいってみたって始まらないんです。小鳥がぴ−っと鳴きゃそれでおしまい。

 わずかに自分一個の解決です、古来こういう道が残されています。
 仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり。


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