チベット仏教
(カルパ17世がダライ・ラマ14世法王のもとへ来ました、カルパ17世はチベット仏教カギュ−派の最高活仏と聞いています、活仏のいることは輪廻転生があり、霊魂・魂の存在を認めざるを得ない。)
どうですかということなんですが、わたしも新聞知識しかないので、思ったこというっきりで勘弁して下さい。
そうですねえ、わたしどもの世代はチベット仏教というと、風変わりというかどっか軽蔑の目で見ていたんです。仏教なら間に合っている、他人ごと仮らずでもいいってふうです。インドへ亡命した先代ダライ・ラマですか、仏教タイムズに寄稿して、
「悟のない仏教は仏教とはいえぬ。」
といった、
「おお、こいつはしっかりしているぜ。」
それを見て師がいった。わたしはチベット仏教を見直したんです。
曹洞宗派は悟もなく、威儀即仏法などいってご都合主義に堕す。
後年オウムの流行ったときに、参禅者がチベット仏教の本を持って来て、ちょっと覗いてみました。
たしかに悟ということではしっかりしてるんです。
でもどうもそればっかりじゃないんです、失念しちゃったですが、いろんなことがある。でもそれ、所変われば品変わるんです、風俗習慣に属することと、教壇仏教に関わることと、もう一つ悟りを得たそのもの個人、個人の存続に関わることの三本立て。
部外者、あるいは他宗派には、どうもそぐわないといって捨てるしかない。
「あ−そうか。」
忘れちまう類。
ほんとうに申し訳ないです、その本読んでみようと思ったら、どっか行っちまったです。
活仏、達磨さんです、活き仏、自性霊明とあります、幽霊という、幽も霊も奥深く微妙という、もとほんとうのありようの、なんの障りもない筆舌に尽くしがたい、その平らかな様子の形容です。
いつか幽霊になって、一人歩きするのは、活き仏の廓然無聖です。がらんとしてなんにもないんです。個々別々です。神さまイデオロギ−として、一を取り他を捨て〜とっつこうはっつこうがないんです。おまえはだれだといわれて、不識、知らないと答えるんです。自分がない、知らないんです。
どうですか、ちょっと見幽霊そっくりでしょう。乃至は霊魂・魂にそっくりっていう、あっはっは、幽霊といわず、たましいといわなければ、達磨さんの心にそっくりなんですがね。
なぜわたしがこんなことをいうか、お考え下さい。
因みに花におまえはと問えば、知らないって答えるんです。
花の世界観は人間と違うたって、無上の幸せってことそっくり同じです。
人間妄想とっつきはっつきの故に、これを損なう。
さて、それで今あなたが活き仏、達磨さんになったと思って下さい。
輪廻転生はありますか。霊魂・魂はありますか。
我と我が身心に聞く、答えは必ずあります。我と我が身心に聞く意外の答えは、そりゃうそなんです、たとい答えたってなんの役にも立たないんです。
数学の答案じゃないです。
でもって今達磨さんです、如来来たる如しです。宇宙と自分が同じものです、木の葉っぱ揺らげばこちいも揺らぐ、天上の星も指呼の間という実感です、欠けること何一つないんです。
どうです、またダライ・ラマになって生まれて来ようと思いますか。
そんな必要があるんだろうか。
過現未何億年だろうが爪から先ってね。もういいっていうのが本音だったり。わたし鮫に生まれ変わってやろうなんて、悟りの悪い証拠。六道輪廻、地獄餓鬼修羅畜生人間天上から一歩抜きん出て如来です。するともうふたたび生まれ変わらない、これ実感であり、仏説です。
お釈迦さんの誕生は、七歩歩んで天上天下指さして、唯我独尊といった、どうですか、六道輪廻を一歩出るんです。そうです、すべての赤ん坊がこう生まれるんです。如来−宇宙の一欠片としてこう生まれるんです。
輪廻転生だの、霊魂・魂だの人間の勝手で大騒ぎしないで、けっこう毛だらけ猫灰だらけってやつです。
どうですか、それをダライ・ラマの生まれ変わりとする、正しいことは正しいんでしょう、幾人もの覚者がこれを厳選する、なんのために、物心つくに従い如来釈尊が、世の妄想の虜になる、これを免れることはできない、だったらもう一度如来来たる如しを知る−悟るためには器の大きいほうがいいか、乃至は信仰と教壇発展の為に。
どうもわたしの預かり知らぬところ、勝手にやってくれといいたくなる。
たしかにいいことはいいんです、霊魂を認めようが、輪廻転生を信じようが、それはいい、でもそれによって影響を受けちゃつまらんのです。
モンゴルの発展を損なうもの仏教だとしたら、仏教の余計物ってことです、いらんことすりゃとんでもないこと起こるんです。
輪廻転生と聞いて、人格を予想する、そりゃ間違いです、人格を予想しなかったら、輪廻転生あってもなくても同じ。
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