丁の字
「知識が乏しく考えもいたらず、経験も浅い人に、むかしのえらい坊さんはどのように導いたか。」
知識はふだん生活できれば、たといできなくとも十分です。考えはふつうの判断でいい。経験は毎日のありようそのものです。その他の何かを求めたって、特殊能力が身に付くというだけのことです。そうではないんでしょう、あなたそのものです、あるいは大安心という、平らかなことじゃないですか。
1、むかし百姓のせがれで、目に一丁字もない、つまり文盲の人がいた、何かのおりにこの事あるを知り、大悟徹底といういったん自分を空じきる方法です。どんなにすばらしいものかと思った。どうでもこれを手に入れようとの一心で、中国へわたるんです。師を探し当てた。真剣に求めれば正師はあるんです。師は漢文はおろかかたことも通じない、この人の手を取って、てのひらに丁という+です、を書いて、これといって指さした。この人四年後丁の字に成り切るんです。一言半句通じないたって、師も本人も是です。徹底成仏底を知るんです。師を証明するといいます。帰朝して仙台にある大寺院の創立となった、百姓のせがれが仙台公の菩提を弔う、これ実話です。
2、香厳という人は非常な学識と、たいへんな秀才であった。仏について説けば、一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜けるといったふうで、何いったって答えがある、どうにもこうにもです。師はそこで、
「お前の父母の生まれる前のお前の眉毛はどんなふうであったか。」
と聞いた。香巌はさあわからなくなった。日夜施設して持って行ったって、師はうんといわぬ。とうとうこれしきの問題がわからんようじゃ、とっても僧はつとまらんといって、自ら寺男になって、毎日庭掃きをしていた。あるとき掃いた石が飛んで、竹藪の竹に当たって一音を発する、これによって悟るんです。香巌爆竹の則といって、今に公案になっています。
どういうことか。もと仏なんです、知識経験のあるなしじゃない、頭のよしあしじゃない、もとどっぷり浸けの仏です。
だがそれに気がつかない、日常の習慣他我という架空のものを立て、それによって取捨選択愛憎の生活です、自分のほんとうがお留守になっている。香巌の場合は、せっかく大法に出会いながら、自分の知識判断力がかえって邪魔をするんです。
このとき、
「おれはだめだ、僧なぞつとまらん。」
といって架空の自分を=浮き世の人にとっては自分そのものなんです、九割方免れる、いっぱしの僧になる、これが彼にとってもっとも大切なことだった、かなぐり捨てるんですよ。てのひらに+と書かれて、これだという、ではこれだの一心不乱です。できたといって持って行ったって、師はそりゃできなけりゃうんといえない。師がはっきりしていなけりゃ駄目です。毎日庭掃きの同じことのくりかえし。庭を掃くっきりの生活です。何ができた。庭を掃くとき庭を掃くことができたんです。他の人何やったって中途半端、ああでもないこうでもないでしょう、それがほんとうに一つこと一つになった、忘我。掃いているその自分をまったく忘れ去るということが起こるんです。たまたまコ−ンと竹に石が当たる、はあっと我に帰るんです。すると手足も耳目もまったく失せて、環境と自分が一体化しているんです。
「我なくしてものみな。」
という実感です、人は生まれながらにしてこのようにあった。もと万物の故郷です。そうです、父母未生前のその我が眉毛なんです。
一切事解決済みを知る。不思議なんですよ、こと終わるんです。だから目に一丁字なくったって、大寺の住職、三界の大導師がつとまるんです。
他にはない、こういうことがある、どうしてもやってみよう、必要なのはこの気持ちだけです。
いろんなこといってる間はなんにもならんです。
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