楽しい座禅


「坐禅が楽しいという人がいる、不思議なことだ。」と、言う人がいる。
「坐禅が楽しいという、不思議だ。」
 これ答えなんです。不思議−思う議にあずからず、思想思念の他にというんです、だから楽しいんです、無上の楽しさがあります。

 坐禅をやってみる、足が痛い、ま−るで死ぬ思いがする。ちょっと慣れると妄想頻出して、わけがわからない。とりとめがない。もうちょっと坐って比較的静かになる、すると自分を眺め暮らしている、目は外向きについているのに、なぜか自分という暗影が見える、あるいは真っ暗がり、あるいは深淵のように思い違え。でもって静に入ったなどいってみても、結局なんにもならない。
「坐禅してみたけど、なんにもならない。」
という感想です。

 二三日前にもそういって来た人がいた、
「参考書、仏教解説読んだけど、いっているようにはならない。」
という、どうも十人百人そんなふうです。
どうしたらいいか。
「歩くとき歩くばっかりでしょう、歩き方を観察したり、歩く研究をしていたら、うまく歩けない、いいですか、坐禅のとき坐禅すりゃいいんです、自分を観察してああでもない、こうでもないしない、吐く息吸う息数息観も、ただもう坐るっきり、それがほんとうに出来たとき終わるんです。」

 わたしとしては、こういうっきりなく、只管打坐とは、ただうちすわる、まるっきり手付かずということです。これがそう簡単にはできない。
 なぜか。

 人間もとこうあるっきりなのに、人間とは何か、人間らしくと思案する、どうもマンガみたいことを、だれかれ大真面目にやって、結果間違いだらけってことあります、(ひゅ−まんの追求に答えが出ないこと、よってかくの如し)=人類の歴史って思いませんか。
 やりゃあやるほど、正確に見えれば見えるほどおかしくなっちまう、迷い込んでへんてこりん。
 どうですこれ、坐禅してるときとそっくりでしょう。

 坐禅は温室ですと、先師老師がいった、他日異日必ず花開くと、禅=単を示すと書くんです、わたしどものもとそっくりのありよう、付け足すものなんにもない、これっきりです。

 これがどうできているかというと、心経にあるとおり、五蘊皆空、度一切苦厄です、どんな厄介ごとも苦しみも、妄想なんもかもとっつかない、不染汚という、染みがつかない、なぜならなんにもないからっていうんです。
 なんにもない=無眼耳鼻舌身意です、目がどこにあるか、知らないんです、目で見るということを知らない、見るものと見られるものの区別がつかない、以下同文ってこってす。
 いいですか、目はここにある、目で見ている、そんなの当たり前じゃないかという、でも体にはこれを知る感覚器官はないんです。後念の知識、教えてもらって習い覚えたんです。
 つねる、痛い、でもどこ痛いかわからないなど、これ実感ですからたしかめてみて下さい。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法と、わたしどものありようを、改めて記載しなければならないほど、後念の知識観念概念生活に、がんじがらめになっている。

 たしかにそりゃ、音は耳で聞くという知識は必要なんだけど、それによって実際を離れてしまう。
 せっかく単を示そうと思っても、おいそれとそうは行かないんです。
 物心つくとからに、がんじがらめ生活を強いられて来た、それをいったん元へ戻す、ぶち破る必要があるんです。
 でないといつまでたっても、坐禅が坐禅にならない、苦痛と我慢大会ばっかりで、ちっとも楽しくならないんです。

 不思議じゃないからです、妄想を追い−とは無意でない、妄想を生み出す自分がその妄想を追う、有意です、ありっこないことをやっている、苦しみの原因です、人はないものに苦しめられる、しばらく確かめてみて下さい。
 自分を眺め暮らすのも、坐禅はこうあるべき、思想理屈をこねまわすのも同じ二人三脚です、いったんこれを止めるんです、無理強い止めるってじゃんしに、自然に止む、これ只管打坐です、でないと弊害があります。

 一つこっきりになる、思想と自分と同じならな−んもない実感です、ついに忘我。自分を観察しないということが始めです。
 ですから「楽しい」の実際は、坐っていながら(なにしていてもです)自分というものがまったくない、外と内の区別がないんです、じきにそれを見ている自分がないんです、不思議です、たとえようもない平らなふう、度一切苦介の現実です。
 こうなって初めて坐禅が坐禅になるんです、元の木阿弥自分というものの実際を知るんです、如来来たる如しです。

 そう長くはかからないんです。こういうことがあると知って、まっしぐらです、たいてい三カ月も坐っていりゃちらとも気がつくものです。
 ですから、坐っていてなにがあっても、手を付けない、なりふりかまわずってことです、坐すとき坐すっきり、歩くとき歩くってこと忘れている、でないとうまく行かない、坐すとき坐を忘れている、手放しのときそっくり終わるんです。
 乃至は人生思想道徳なんのかのうっとうしいこと、そっくり終わるんです。


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