単純事実  


 わたしのいってることありがたいこと−観念知識じゃなく、心のメカニズムです。わからないというまえにご自分の心=すべての人の心、でもって確かめて下さい。そう難しいことじゃないです。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法とあります、眼も耳も鼻もないっていうんです、どう思われますか、だってあるじゃないかという、はたしてそうか、確かめてみりゃいいです。身体メカニズムとして、眼〜身、色〜触を知ること不可能に出来上がっています。目はどこにあるか、知らない、目で見ているか、知らない、見ているものと見られているものの区別、知らない等です。知っているとは後から教えられて知っているんです。実感じゃないんです。もとないものをあると思い違えて生きているんです。そこが問題なんです。

 生まれてほどない赤ん坊に対って、指をぱちっと鳴らす、赤ん坊は通身ぶるぶるっとやる、耳で聞こえる〜指を鳴らす等の観念がないからです。大人はなんだというんです、何用あってと。
 赤ん坊の前に手を左右する、赤ん坊は体ごと左右する、自他の区別がないんです、目で見る、見ている等の観念の欠如。
 赤ん坊はそりゃ役に立たない、いったん観念知識を得なきゃどうしようもない、でも本当ほんらいは赤ん坊にあるんです、生活の充足感です、もとこのように生まれついている、何不足ない、花のように月のように人もあり、雪月花ともにあり、パンドラの箱なんか開けなくってもいいように、宗教思想その他無用の長物〜百害あって一利なしってふうに出来上がっている、でなくばわたしらの存在の意味がない。
 ということを知るのを悟りという、無常正当菩提、あのくたらさんみゃくさんぼだいという、元の木阿弥帰家穏坐底です。
 だれにも一回だけあります−そりゃ当たり前。

 観自在菩薩−自由に見る菩薩、なんのとらわれもない、まっさらに見る、赤ん坊のようにまっさらに見てごらん−般若波羅蜜多を深く行ずる時−はんにゃはらみつパ−ラミ−タ−彼岸に渡るの意、もとまるっきりないものをあると教えられ思い込みです、見る聞く味わう触れる〜心があると思い込む=自分があるという思い込みです、そうしてすべては自分中心に考える、これをこっちの岸此岸といいます。もう一回もとへかえす、手放してごらんなさい、行深です、まるっきり手放すんです、すべてはあっちの岸彼岸です。無心の実際です、忘我といいます、あなたが今とやこうといっている、正しかろうが間違っていようが、そういっている自分をいったん忘れ去るんです、あのくたらさんみゃくさんぼだいです。それ以外に道はないことを仏教は端的に説くんです。でなけりゃ何いったってなんにもならん、ただのかす、地球のお荷物ですよ−五蘊は皆空なりと照見して−五蘊有眼耳鼻舌身意から来る観念知識のコングロマリットです、仏教ありありがたやあり、私サイトあり、すべては砂上楼閣です、人はあるものには思い悩まない、ないものをありとする、だから思い悩むんです、五蘊皆空すべては思い込みであると知って−一切苦厄を度したまう−放せば手に満つんです、すべては自分が形作る自縄自縛であった、自分=自縄自縛の縄です、ほどき終わればもと仏。

 仏説にはもとなんにもないんです、心のメカニズム心のありようはこうだから、これに違反したらろくなことがないとそれっきり、ほんらいあるがまんまに満足出来なければ、そりゃどうしよもない、如来=来たる如しなんです、花も如来石っころもごみあくたも如来、だのにどうして人間だけが、というのがお釈迦さんの仏教なんです。

 無眼耳鼻舌身意の無意ということについて、お考え下さい、あなたがたといどんなことを考えようが、そりゃ心としちゃまったく同じこってす、なんで意が無いのか、どうです、意があるとはどういうことです、意を観察するから有るという、では観察する意はどこにあるんです、見る心と見られる心の二分裂、そんなことありっこないです。
 いいですか無心という実体です、これを知らんけりゃ仏はないんです。有心でいくらごたくさいったって、世の中かき濁すっきりです、お釈迦さんに習ってお釈迦さんに違反するんです。
 無心−見る心と見られる心を一つにする−ふわ−っとなんにもなくなっちゃうんです。
 糸の切れた凧の実際です、どのような心の動き〜有縁無縁因果等もただそのあるがまんまに行く、ほんらいこれっきりしかないのを知るんです。能書きじゃない、現実です、アッハッハわかりますか。


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