ただの工夫
知を捨て去るというふうにやったらだめなんです、知識は知識なんです、よくも悪くもないんです、是非善悪もとっから必要なんですよ、でもそれにとらわれない方法なんです。でもってどうするか、考え方であ−でもないこうでもないやったら、むずかしい−収拾がつかなくなるんです。だから坐禅があるんです、けっかふざして坐るでしょう、
一、足腰痛むとかいって、痛まなくなったとかいって、自分を観察している、ないはずの自分が見える等。
二、次から次へ妄想して、それを追いかけている等。
三、うすぼんやりとか半眠り。
四、なにかへんなものが見える。
五、自分がなくなる。
六、とどこまで行っても取り扱っている=とらわれです。
ですから坐禅とは手つかずの工夫といいます。何起こっても手を付けない、これの工夫=無知の知、あんまりいい語じゃないけど、そういうことです。只管打坐、ただの工夫です、いつかこれが手に入るんです。単純なことなんです。
とらわれを去る−思考の論理じゃできないってこと先ず知って下さい。とやこう考える即ちとらわれなんです。そうして何が手に入るか、自分自身になるんです。
仏教が手に入るんじゃない、だから禅の言葉とかいらない、そんなものありっこないんです。
自分になる=忘我。
忘我になるには忘我っきりない、他はみんな余計者物です。捨てたつもりになったって、そりゃだめです。
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