ただの人
本物の禅者というものはないんです、ただの人があるんです、なんのとらわれもない、生まれついての、生まれる以前からそのまんま、
「舌頭たたわわとして定まらず。」
といいます、赤ん坊のまっさらです、だから禅の説明、仏教語とかいうと、それだけで嫌気がさすんです、禅語もお経の文句も、右の引用は宝鏡三昧からですが、学者の言説ってのはあてにならないにしても、ぴったりと便利でもって使いますけど、ふだんは禅だろうが、ど田舎ネエちゃんだろうが、からすのかあだろうが、時によっての、見境なしです。
それでなけりゃ面白くない、生きてる価値ないです。
モ−ツアルトがいいってばモ−ツアルトだし、きのこ取りしようってばきのこ取りです、そこを、禅ではどうの、仏教はなんていうの、あほくさってこってす。
ですからどんな問題も痛切な問題であり、宗教や思想という、そんな人間の作り出したものに、してやられるってことないです、赤ん坊の特権ですよ。外部と内部のないのが、たたわわの赤ん坊、禅の視点なんてものあったら、糞詰まりのヘルニヤんなっちまうです。どうですか、禅とかステップとか相対主義とか、未消化うんち止めて、つうかあただの人になりましょうよ。
坐らんけりゃ、座禅にならない。
これね、ただ単に体得=知るっきゃないことです。
まずご自分の思想知識というものの、そう絶を待って初めて、禅というものがあるんです。
たいてい間違えるんです、言説思想がなんかの足しになると思うんです、そういう世界じゃないんです。
こういうことほんとうにいいたかないんだけど、わたし東大出、でもって脳味噌ごっちゃりにして、出家して、高校中退した二つ下の兄弟子といっしょにいた、毎日議論ふっかけて、爪っから先もかなわなかったの覚えています。
別に禅や仏教のこっちゃない、わたし専門のドイツ文学(ぜんぜんぱあです、念のため)だっても歯が立たなかった。
彼は死に別れた両親に会いたいといって出家した、東北の人です、正師を求めて、岩手から浜松まで雲水行脚です、ついに正師に会う、
「おらもうこれで死んでもいいと思ったぜ。」
という、ついにぶったおれるまで坐って、先輩たちに助け出された、
「時節因縁てことあるから。」
「いいや、おれは今が時節因縁だ。」
という、わたしの出会った時は、すでに十年選手であった、
「どうやら只管の消息。」
といってにっこり歩いていた、歩々清風起こるその姿を思い出すんです。
思い出せば涙。
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