ただの人
「 現世の人間の身体は、この世に有る内の肉体と、永遠の命とを持つ魂とに、依って成り立っています、この肉体は、生活道を通して維持されているもの、その他の方法有るや否や?貴方は如何なる方法で、維持されて居りますか、その方法は、この世の全ての人々が使えますか?全ての人々が使えない方法で無ければ、仏の法にあらずなり。
言葉や、文字で悟れるものなれば、現世に来るを認めずなり。
肉体の要らぬ世界で悟れば良い。
わざわざ苦行多きこの世に来た目的は、如何なるものや? 」
というのどっかおかしいと思いませんか、心経に無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法とあります。平らにいえば肉体のあるなしをわたしどもは実感できない、というのです。いいかえれば実感できても、あるなしはおろか(どこでどうなって、だから云々)できないというのです。有眼耳鼻身意、有色声香味触法、つまり常日常と思い込んでいる姿は、それは教えられて、習得してそうなった、耳はどこにある、耳で聞く、目で見る、見える、むこうとこっちなどです。色といい声といい味といいみなそうです。
生まれて間もない赤ん坊の生活は、だからわたしども大人とは根本的に違っています。目の前に掌を左右すると、大人はせいぜいが目玉を動かすぐらい、赤ん坊は体ごと左右させる、目を知らぬからです、自他の区別がないからです、17歳になるまで塔に押し込められて、一人っきり生活していた青年が、赤ん坊と同じ生活態度、つまり無眼耳舌身意であったという報告例があります。
ところがこれじゃいわゆる世間生活ができない、したがい観念概念知識を身に付けるんです。手は手足は足、自分と他人、この激痛は痛いということ、痛ければどうなる〜痛いことしたら泣く、やっつけるとかです。
眼界乃至意識界という五蘊が生ずる、世間生活の集積回路です。
そこでどうですか、現世の人間の肉体は〜永遠の命とを持つ魂云々のお考えは、この五蘊から発生したものではないですか、つまり実際体験がもとになっていない、後念のしからしむるところ、観念上の願いであり架空のものと違いますか、決して満たされるところのない、思想というのか思い込みです。
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
これが心経の総論、つまり仏教入門です。
観自在菩薩−自由に見る、なんのとらわれ思い込みもなく、くもりない赤ん坊のようにまっさらです、
行深般若波羅蜜多時−ぱ−らみ−た−彼岸にわたる、こっち岸みんな自分の都合勝手にきめる思い込み世界です、有眼耳鼻舌身意です、それによって起こる自己中心の世界です。それをもとへ帰すんです、無眼耳鼻舌身意のほんらい実感の世界です。
そうしたら、すべての厄介ごと苦しみごとが、な−んだ自分のかってに作っていた、すべては思い込みだったというんです。ありながらにしての有頂天このように楽しいすばらしいという、無上正当菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいの実感です。
ですから、いいですか、あなたのいわれるように、たとい肉体がこうで魂が永遠だろうが、もとそのように備わってこう使っている、永遠といわれようが一瞬だろうが、魂なかろうが、肉体めくそはんかけだろうが、
「はいそうですか。」
「そんなこたいらん」
のどっちでもいい、いわれたとたんに忘れほうけて十分なんです。
維持することも、大法を云々も悟も未悟もない、生活も生活道もそりゃ自ずからです、寝てばっかいりゃそういう結果、頭使えば使ったということ、などいくつかこうあるっきりです。
でもこれ知らなきゃあそりゃ使えんです。
生活教というなら、大死一番して得るほどの一大事因縁。
そうねえそれいうんなら、人間の生活なんてものほんらいないんです。あるのはそういう思い込みっきりです。
悟りがあるといって迷い、ないといって迷い、生活といって言い訳し、現世に来るを認めずたってちゃ−んと如来のくせに、月より花より山川草木より、な−んだかさっぱりの曖昧もこです。つまらんです。
知るとはどういうことだ、達磨の不識ってご存知ですか。達磨さん、おまえはだれかといわれて、
「知らない。」
と答えたんです。
これしか正解はない、知ってる分がみな嘘です。花におまえはだれだって聞いてごらんなさい、知らないっていいます、そりゃ口きけぬからだって、そんなことないです、人間以外たいてい「知らない」ほうに入るんです。
だれが永遠の命などいいます? すでにして永遠の命なら、まさに100%生きてりゃいいです。他になにいるんです。花は花のように咲く、いいわけもだからもいらん、如来来たる如しを=「知らない」っていうんです。
アッハッハ知らないを知る方法とでもいっときますか。要するにもとの木阿弥、まったくただのこの方法=仏教は、ただじゃあ手に入らないんです。
どうしても、まず第一に観念知識、後念根なし草の五蘊どっぷり浸けから、足を洗わにゃだめです。
仏教仏についてちらとも知ってることあれば、それが邪魔して仏になれない。
単純なからくりなんです、アダムとイブの地上の楽園は、もと生まれながらの真実生活−無眼耳鼻舌身意にあったんです、天地宇宙とともにある我と有情と悉皆成仏の実際です。失楽園つまりそこを追われて観念生活に入ったんです。
入れば入るほどに実感がない−淋しい−人みなそうだ−なんとかしたい−宗教理想その他といって、つまり満たされぬこと、不満足楽園に戻りたいというのを、観念の延長上に行なをうとする、そりゃだめです、どこまでいったっていよいよ不満足、たとい地球を支配してみたって、まんがにしかならんです。
そうではない、もとに戻ったら納まるぞと知ったのがお釈迦さんです。いったん元へ戻ってみるんです、すると故郷へ帰ったんす、ぴったり収まりつくってことありますよ。
そうねえ、こりゃ実行の問題心のメカニックです、心経に書いてある通りなんです。
他ないってこと知るのに、真剣勝負ですかナ、まあ。
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