救い
人間の救いとは何か、本来救われてあるということを知る、なんら手続きのいらない、これ以外にはない、悟とは実にこれを知る、端的に知って他を救いうる。
どういうことかというと、生まれたての赤ん坊、toutetu坊っちゃんが、世間事パアというのに、人を救いうる力を持つ、実にそういうことで、物心つくにしたがい離れて行く、そのすんでにちらとも、
「赤ん坊の君が正しい。」
と、知らせることができたらと思う。けれども知らせることができて、自知するにしたがい、他の一切が身に付かずということが大いにありそうだ。
(この発菩提心、多くは南閻浮の人心に発心すべきなり)という、世間世の中、妄想の渦中にあっての発心という、いったん迷い出てその後にということで、初めて役に立つ。
この事は実に言語に絶するもので、神による救いをいい、道徳思想をいい、永年にわたってそれらしいことをなし、後生大事の学者硯学も、一宗の長だろうが、弁舌さ わやかだろうが、目くそ半欠けだろうが、いかなる権威も一目瞭然。
ないものにはちらともあればそれが映る、という単純明解な仕掛け。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
パ−ラミ−タ−彼岸にわたる、いったん妄想我田引水の此岸を去って、自分という架空道具です、その邪まにするところをお返しして、もとの木阿弥彼岸にいたる、観自在菩薩、自由自在に見る、なんのくもりもなくまっさらの、赤ん坊のようにです。五蘊皆空と知る、すべてが思い込みであったと知って、一切の苦厄を免れるんです。実に仏教とは、たったこれだけのことで、般若心経のおおむかしから、それっきりに伝わっている、伝わっているに係わらず、わけのわからんありがたや、手を合わせ、八万四千巻のお経とか、仏教大学とか、仏教というきらきらピラミッド、ひいては葬式坊主とか、派生宗派、これは仏教ではない、風俗習慣、しゃば世間に帰属するものだ。
たとい参禅の人も、(単純を示す)これに参ずるんではなしに、悟身心脱落の噂に参ずる、もと本来に帰るんではなしに、大悟徹底といい解脱人という、祭り上げられたものに至ろうとする、苦労の甲斐がないんです。
苦労のはては、人にひけらかす他なく。
「こうあるべきだ。」
という他なく。
老師師家という役者芝居、威儀即仏法という物真似、たまに、
「ちがうんではないか。」
と問えば、どなりまくって、
「だって、先祖代々こうやって来たんだ。」
という、耳をすませて聞いてみるによし。そういうものにひっかからないんです。一生のむだっことです。もっともこの事にせだろうが、ほんものだろうが同じ人間てことで、始末に悪い。
乃至はかさぶたじっさにならないこと、知識思想は人を豊かにするという、それは知識思想に縛られない人です。主客転倒という、生み出した人間が、生み出したものの奴隷になっている、
(声色の奴卑と馳走す。)
走り回って一瞬止みまもない、声と色という、見たふう聞いたふうです、いってみりゃ人の食いかす、不消化うんちです、だれはこういった、ものはこうあるべき、かさぶたです、だからそういうものをが使えばいい、使われていたらだめです。
一生の猿真似は残酷であり、ついには動脈硬化。
ものをほんとうに見ることをしない一生なんて、意味ないです。
ほんとうに見るとは、電子顕微鏡や天文台ではない、大統一理論の至りえ帰り来たるんじゃない、もと生まれたまんまのほんとうです、でなかったら無意味です、記述じゃないんです、ほんとう実際とうことを知って下さい。この五体満足になに付け足したって、不自由なばかりです。
如来釈尊をあがめたてまつって、自分を卑下し、ついには仏祖をそしり、人もそうだから自分もこうでといって、世の中ついにバスジャックの十七歳を生んだのは、
「そういう自分のせいだ。」
と、ちらっとも思い当たることです。
この事科学より直接厳密です、心経にまさに示すとうりです、心のありように反することをすれば、結果このとおりということ、実に単純明解です。
わかったらさっさとやりゃ0ってこってす。
なんの手続きもいらない。
根も葉もないんです。
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