知らない


 知らないっていうのはほんとうに知らないってこと。
 口先だけの人は実際を知らない、知識学者坊主どもは悟を知らないんです。明星一見の事です。するとたとい何云ったってまるっきり違う、近似値でさえない、このことにどうにも気がつかない、従前の自己妄想線形の上にしか見ない。第一役に立たない。自分満足しないし、人に手をさし伸ばすべきを(おれさまはどうでだからおれをなんとかしろ)って云っている、学者権威だろうが偉そうだろうが、口開けばそう聞こえるんです。
 
 正師邪師ほんものにせものを見分ける方法はだから、
1自分を囲うものにせもの、なりふりかまわぬものほんもの。
2にせものはアレと云い、ほんものはコレと云う。
3たいていにせもののほうが詳しい、いろんなことを持ち出す、ほんものはなるたけ手段を控える、一言いうそれによって開け外れる分と、かえって蓋になり迷う分とあるんです。だから云えば云いっぱなし、あとであの時こう云ったからと云われても、こっちが覚えていない。
4らしいとほんものを見分けるのは、でもそう簡単ではない、らしいものまね、大昔っからあるさまざま手練手管、ほんものよりらしくみたいのや、いかにもって感じの食わせもの、また詐欺師は自分信じ込んでからってのあったり、奇々怪々だったりします。でもこっち真っ正直なら、そりゃ真っ正直に出会えばわかるんです。たとい云うことちんぷんかんぷんだったって、ついに我が遍歴終わるんです。

 ないあるという、趙州狗子に仏性ありやまたなしや、云く無、云く有。これねえ知識学問じゃどうもならん、鏡三つなんていう道元さんひっかけに見事ひっかかるしかない。あれ仏法僧をもって云ったんです、堂の辺り行き過ぎてまさにそのとおりってだけですよ。ないあるという、実にこれ実感なんです。身心失せた人が知らないという、風景まさに有るというにはまったく無いんです、無いというにはものみな有って千変万化です、千変万化しようが見るとおり聞くとおり他ないんです。こんなこと言葉でたとい百万語尽くそうが、
「ば−か。」
舌べろうと出してけりです。そうですねえビジュアルには雪舟の絵がよく表わしています、実にあのように見える、目無うして見るんです、人宇宙の中心でありながら人無しです。これぎゃ−すか云ったってしょうがないです、たとい一片の正確あったって、自分がそれ享受しなけりゃな−んもならん、見たことも聞いたこともないこと説明したってそりゃだめです。見りゃいい、それでけりです。
 こんな単純なことネグレクトして、やれ眼蔵だやれ道元禅師がどうのって、これクレイジイでなきゃ相当の能足りんですよ。

 とにかく自分囲ってないんです、色不異空とてめえっちの敷居から一歩踏み出す、これ仏教ことはじめ。
 坊主も学者も一般人もまったく同じです、てめえ囲ってるもの役立たず。一歩でも二歩でも踏み出そうとする、そうしたら仏です。引き籠もりさん死ぬ思いして、九州からお寺までやって来た。そうです一歩出ましたよ、二歩めもじきです。


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