心意識


(1)たとえば、心とは何かと問うでしょう。すると問うているその心は?となります。自分は何かと問う、同じ事です。自分が自分に問う、どこかおかしいと思いませんか。蛇が自分のしっぽを飲み込んだら、しまいに消え去るかというとお釣りばっかり残ってしまいます。

(2)心にニ心ありと云います。従前の心と真の心と。従前の心とは、心という残像を追い、無いはずのものに苦しめられる、二分三裂するように見える心です。架空事です。これを先ず知ることが大切です。真の心とは風景そのものであったりします。

(3)如来という語があるでしょう、何だと思いますか。(逆さから読むと)如来=来る如し、なんです。なぜに自分がこうあるか、どう答えたって答えにならないんです。如来とこうあるっきりです。どうですか、花でも空でも雲でも如来じゃないですか。鳥も獣もたいてい如来の分で活動しています。人間だけが従前の心にとらわれて、戦争だ平和だといって暮らして来て、どうもあんまりいいことがなかったんです。

(4)仏足石といものがあります。お釈迦さんの足の型が石に刻んであるのです。むかしはこれだけが仏像だったんです。そうです、立派な仏像です。お釈迦さんがその上に立っているんです。え、お釈迦さんなんかいない→いないのがお釈迦さん→いない=すべての風景=天地宇宙です。そうして、自分がその上に立つことが出来ます。

(5)無心という言葉を聞いた事がありますか。無心にやればうまく行くとか、無心な子供とか、お金をせびるのも無心といったりします。真の心はこの無心と同じと思ってもよろしいのです。従前の心は、心が心を振り返る、省みる省みる心はどこに、というように、不必要であり、既にないものをあると思い込む煩瑣、うるさったくって有害です。そうして、ほんとうの風景、雪月花=心と云われる(春は花夏時鳥秋紅葉冬雪降りて涼しかりきける、なんて云います)。日本人の幸せに、うす汚れたフィルターをかける、身心病に至る、ひょっとしてこれがすべての原因と思われます。心の二人三脚です。歩きながら歩き方を研究したりとか、後ろ向きに歩くetcとかです。

(6)私は若い頃、師に就いて参禅していました。ある時の摂心(5〜7日間の坐禅)に妄想妄念が出て困った、振り払おうとするとますます煩瑣です。なんとかしようというんで、まっ黒になってやっていました。4日間ぶっとうしに、こんちきしょうってやっているうちに、もうどうこうもならん、どうともなれと突っ放したら、パアーッみんなどっかへすっ飛んで何にもなくなって坐っていました。

(7)心意識が失せたんではなく、心が心を追い求める二人三脚の二重性が消えたんです。真っ正面に向くというか心が一つっきりの、もとのありように立ち返ったのです。心意識=念がぽっと出て、ぽっと消える、これだけになった時、ハアーッとなんにもない実感です。

(8)一つっきりの心、真の心を持っての生活は、一年365日夢という楽しさがあります。真実であればあるほど夢、なぜかたった今を味わいつくして、とやこうの反省文がないからです。子供の頃のことをあんまり覚えていないのは、記憶が失せたんではなくって、あんまり楽しかったからです。
 動植物はみんなこのように生きています。

(9)従前の心、{振り返りたしかめなければいられない}心が、漠然とも判然とも、すべての不安の原因になります。なぜか。ふり返って見るときに、もはやないからです。残像、記憶としてあると思い込む。或いは、ふり返り見る自分=心という事実から目をそむけるからです。

(10)心のメカニックは実に単純ですが、だからこれをどうしようという時、そう簡単にはうまく行かないんです。古来さまざまな人が、ほんとうに苦労して手に入れたんだと云っていいです。でも、自分のことだから、だれにだって出来ます。

(11)出来たとたん、たとえば「正常人と狂人との区別がない」とかのことを、なあるほどと思ったり、狂人は精神病院じゃ治りっこないと思ったりします。。狂うとはなにか、これも単純なメカニックです。幸せや罪悪感も適当なブレーキがかかっている時だけ、正常というんです。なぜなら、幸せにしろ罪悪感にしろ、みんなそういう思い込みだからです。

(12)月は月花もむかしの花ながら見るもののものになりにけるかな(至道無難禅師)ということが一生に一度あったらいいんです。


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