死んで菩提


「信ずるものは、その人にとってただ一つのものでなくてどうするんですか、そんな唯一のものが人それぞれの中に流れている。」
というんでしょう、ではそれを(坐禅という自己の俎板の上に乗せて−もと不必要なんですが)ついには真っ正面に見る。面と向き合うとない、(信じるといって)見ている者も見られている物もない、これが只管打坐の方法なんです。
「信ずるといっている者だれ」
と問うこと、
「唯一のものという時二分裂する、即ち唯一ではない」
あるいは、
「信によって不信が生ずる」
ということです。
 これをまったく手つかずの工夫=生まれついてのただ=如来来たる如しといいます。
自分の思想念想観の延長上にはないんです、まずそれの非を悟る、どうしたってこりゃぶった切る斧ってこってす。
 ぶった切られりゃ痛いんだけど、はあっと気がつくと痛むはずの身心がない。
 わっはっは、耳なしほういちじゃない、無眼耳舌身意な−んにもなしから、皮相の表面ずらを一つ。

 趙州因みに僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄。趙云く、汝の云うは真髄に非ず、皮袋ならずや。
 仏の真髄如何と問うんです、なにをどうしたらいい、唯一のものとは何、信不信如何と問うんです。なにをどうしたらOか、これに対して趙州和尚は、お前のいってるのは真髄のこっちゃなくて皮っつらだろうという。

 これ一件落着なんです。
 心とはなんですか。心はどこにありますか。
 人間を一筆書きにしてぐるっと回転すると、皮袋です、自己の立場を擁護するのも、頭にきたこんちくしょうやるのも、これこそ大切なものだ、良心社会正義をいい心理分析同情もです、み−んな皮袋のこってないかいっていうのです。
 なぜってね、人間の感覚器官ないしはそれによっての生活、五蘊はみんなその皮っつらにあるんです。 病気にでもならなければ皮っつらの下は仏ホットケですよ。
 悟とはどういうことか、皮っつら一枚はぐんです。
 すると自分がまったく失せる。
 どういうことかわかりますか。
 平たくいえば宇宙と自分が一体化する。
 もとこのようであったと知る。
 そうするとね、他のどのようにすばらしいことだろうが、そりゃ後からの産物、出入り自由だってことです。バッハすばらしい、だけどバッハを信ずる必要がない。バッハとともに気絶して、次にはもう忘れているんです。
 100%味わって次の瞬間まるっきりない、これが無心です。

 有心は滞るんです、いいわるいをいう、ダカラといって縛るんです、信じれば救われるという、信じても信じなくてもものみな同じなんです、花は花月は月、知らぬは人間ばかりってことあります。
 自分が有心のものって気がついて下さい。有心故に滞ることをです。
 日常なんとなし行っている人は、仏門を叩かないんです、有心にちらとも傷がつく、さあどうしたらいいってわけです。
ほんとうに困ったら答えてくれるんです。
 いうだけアホらしくなっちゃった。そんな人そりゃ数の上では最大多数といったらいいんです。思想観念によらないということが、どうしてもわからない。自分の意見をなでくってくれ、いい子いい子してくれとしかいわない。でもそれじゃなんにもならない。
 同病相憐れむということしないんです。
 おまえもこうだがおれもこうだっていうアッハッハ。たとい正論という=一般的というだれかの物差しによって支えられている、どんなたしかそうなことだって、時代が変わればくるっと変わっちゃうんです。今はもう三年ごとにくるくる変わる。
 いいですか、だから信仰といったって、どこかに無理があるんです。信ずれば信ずるほどダカラの世界です。だからといって絶え間なしに栄養を与えていないと、色あせ固まってしまうんです。集団の力を借りて絶えざる進展という、騒がしいかぎりです、いずれナチスヒットラ−と目くそ鼻くそ。
 そんな無理難題しなくったって、もとあるまんまでよいってことあります、でなかったらわたしらの存在自体無意味です。如来来たる如しの法。


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