死んだ子どもを忘れられない母親に
死んだ子どもを忘れられない母親に−自分も死んでみるしかないんです。慰め励まし助言とかいうの、殺し文句の世界です、キャッチセ−ルスみたいのにころっとやられる、いっときなんとかなるってことです。夢から覚めてまた夢というより、夢のまた夢、迷いの上の迷いです、頭上に頭を按ずといいます。
死ぬ方法の一つは、壁に向かって坐る、面壁です、坐ったらどうなるの結果を考えたら駄目です、坐っているとか思う脇見運転だめです、なりふりかまわずです。
なんとかならないかって坐ったらなんとかなるんです。
わずかに心意識の上の問題です、だったら身心そのものが必ず解決するんです。
古来みなそうやってやって来たんですよ、お茶を濁したらお茶を濁した人間になってしまう。
答えが出なかったら、生きてはいられない。
これ解決のたった一つの方法ってこと、今の世だろうが心理学もなにもないんです。
でもね、そうやって坐っているでしょう、身心あい整って来るんです、つまり余計ことどっかへ行く、すると死んだ子がまざまざと出て来るんです、
「あああのときわたしはなにもしてやれなかった、そうじゃないわざと意地悪して、そっぽ向いて、そんだのにあの子は、−」
自分を責めるっきりない、三心不可得というその現実のまんま、ばかあ−っと来る。
号泣の他ないんです。
「もう坐れない、許して。」
といって来る。
「いいから坐りなさい、仏さまがお前を罰するというんなら、首さし出すんです。」
坐るんです。
不思議なんです、何度か去来する、哀しい我が子が、二度と同じふうには去来しないんです。
同じふうに思い出したって、もはやかつての影響力は持たない。
死ぬということです=解き放たれるんです。
これを生半可にやる、つまり半分逃げるからいつまでも追って来るんです。
三心不可得−過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。悩み苦しむ等およそ不可能だっていってるんです。
かつて我が子が死ぬるほどの大事件があると、出家剃髪して、ほんとうに個の三心不可得をうる、生死を明きらめたんです。
その仏門がなくなってしまいました。
じゃ人間どこへ行ったらいいんです。日本は滅びるではないかと危惧します。
キリスト教は邪教だけれども(というとまた怒られるんですが、)ちゃんと修道院があります、テンプル騎士団やフリ−メイソンが文化を担って来たんです、文化とは人類あし草の成長点です、止まったらもうおしまい、腐れるっきりです。
禅門が大いにこの役を担って来ました。今はない。
そんなことはない、復活すればいいではないか。
腐ったらたった一つの種でいい。
必ず芽吹くんです。
おれはなんだからといってないんですよ、一個半個(わたし)という形骸を脱するんです。
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