色即是空のこと
私が参禅のはじめ、老師は眼前の急須と茶碗を取り、どっちが大きいかと聞く、なにを聞くんだこのじいさ、そんなもん急須が大きいに決まっている、− また真っ赤な鉢を示し、赤いか黒いかという、あるいは筆をとって、あるかないかと聞く、あるに決まってるじゃないかアホ、−
何度かやっているうちに、大小ということがふっと失せる、赤いが真っ黒になったり、あるとないが同じになる。
哲学上の問題じゃない、見た目のことです。理屈を云えば、あるなし大小色あいのこと、人間のかってにつけた便宜上の名称です、おぎゃあと生まれ立てにそういう概念化抽象化はなかったんです、すると世界はどう見えるか。
「ちらとも見せてやりたかったんです。」
老師は云った。
あるといいないといっても現実はまったく変わらない、でも理屈じゃなくって実際に知るにはちょっと間があるんです。
あるということにそれだけ固執している、とらわれているということです。
色即是空あればあるほどないっていう、これ仏道のいろはのいです、けれどもだからどうのいったってだめです、見るもの聞くもののこってす、見たり聞いたりのほかないんです。峨山韶碩禅師臘八摂心にこれはという者十名をえらび、目の前に穴を掘って示し、もしこの間に成仏せずんば、生きていたって仕方なかろう、生き埋めだといった。十名のうち九人までは行く。あとの一人がどうでも行かぬ。生き埋めにされちゃたいへんだといって、逃げ出した。途中石にけつまずいて、生爪をはがす。
「いっつう。」
というんです、痛いことはいたい、でもどこが痛いのかわからない。
無眼耳鼻舌身意を知るんです、自分というこの身心がまったく失せて、ものみなと一体化するんです。
これ面白いんですよ、もと無眼耳鼻舌身意、色即是空と生まれているんです、元の木阿弥に返ったんです、すると不思議(思いによらない)にぴったり納まるんです。
文句云おうたって文句いう自分がないんです。通幻寂霊禅師の因縁です。
「わたしも後を慕うて行ってみましたがね、なに、なんの変哲もないただの道ですよ。」老師はいった。
戻る