只管打坐Q&A



「悟りとはどういうことですか?」

「わたしらがもって生まれた現実を、ほんとうに見るんです。」


「いつだって現実です、どう違うんですか?」

「自分というものをまったく抜きで見るんです。」


「じゃ風景があるっきりですが。」

「風景を見ている自分抜きです。」


「死んでるのと同じなのか、それともとんでもなくすばらしいのか?」

「両方です。」

 


「悟りというきらきらしいものではないんですね。」

「生まれて初めて見る風景です。」


「どんなふうですか?」

「自分で見るよりないんです。」


「我と大地有情と悉皆成仏とお釈迦さまが云われたそうですが。」

「我とものみな成仏と、もとそのとおりにあったことに気がつくんです。」

「そう云われればそうだという気がする。」

「というんではなんの役にも立たないんです。わずかに忘我、自分を忘れるということがあります、向こうから証明されるんです、でなかったら言い種に過ぎない、仏教ではないんです。」

 


「悟りおわって悟りなしと云いますが?」

「自分という、我とものみなの本来を知るんです、知り終わって納得する以外なんにもないんです。」


「ではなんの役にも立たないんですか?」

「はじめて物の役に立つんです。」


「悟りという境地でものを見るということですか?」

「なんの境地ももたないのを悟りと云います、思想イデア宗教などそうゆう一切にとらわれないんです、自分の思想の自分は主人だということを知る、だから役に立つんです。」


「悟ったという実行力とか。」

「悟ったから、それだからということが一切ないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずといいます、なんにもないんです、ですからあらゆる一切です、無思想無宗教というほどに、人は右往左往して種々さまざまとらわれっぱなしです、是非善悪の、自分流といいながら他人の物差しです、そうゆうものからまったく免れている、出入り自由なんです。」

 


「でも悟ったか悟らないかと云うんですが。」

「悟りとして忘我、我を忘れる体験はあったほうがいい、百万語をつくしても、百聞一見にしかずといって、ちらとも見ればそれで終わるんです。」


「悟らなければ駄目ですか?」

「悟ろう、悟を得ようというところから始めたほうがいいです、そうして悟りというものを卒業してしまって下さい。」


「どういうことですか?」

「ほんらいないものに振り回されていては、卑小なものになってしまいます。」


「悟らないと役に立たない。」

「ひとまずそう思ったほうがいいです。」

 


「でも悟ったら悟りに振り回される。」

「そういうことがままあります。」


「どういうことなんですか?」

「忘我体験を持つ、つまり風景としてあとから見るんです、するともうそれは別物です、でも苦労して得たからおれは、わたしは悟ったというんです、たしかに一般人の及びもつかぬことがあります、だからおれは、わたしはという分浮き上がってしまいます、たといお悟り風景を持たずとも、悟ったあとはまったく違うことがあります、とらわれのない生活というのは、同じようでいてがらっと変わってしまいます、すると自ら世を食み出すか、悟った人といって別格の地位を求めるか、ということがあります。」


「一個の自由人というわけにはいかないんですか?」

「ほんとうに明きらめることです。」


「ほんとうでないってことがあるんですか?」

「ほんとうでないってことはないんですが、たとえば忘我体験がある、せっかくぴったりやったのに、三年たって会ってみると何の足しにもなっていない、人から食み出す分けちになって、そうしてなおかつ悟りを求めていたりする。かと思えば必死に仏教、祖師の語祿を研究して鉄壁の鎧と、そのお悟り仏教を身に付けて、一山の主一方の旗頭にのし上がろうとする、どちらも不可です、ただまったく手つかずの普通の目を見開くことがなぜできないのか。」


「なぜできないんですか?」

「只管打坐ではないからです。」


「特殊体験ですか?」

「ひょっとするとそうなってしまう。」


「なぜでしょう?」

「なんにももたない、これに徹底できないからです。」

 


「悟りということに世の中一切がある、仏教ということのすべてだという。」

「そうではない、たった我がこの一個のすべてです。」


「それで用が足りる。」

「あとのことは必要に応じて勉強すりゃいいんです。」


「世間のものは世間のもの。」

「そうじゃないんです、世間のものなんてないんです、すべては法のもの、法といってとやこうじゃない、個々別々、そのものずばりです。」


「自ずからということ。」

「七通八達と云うんですか、この只管打坐を、久しく絶えていたものを、独力で復興した人がいます、飯田トウ陰老師という方ですが、今に残っている碧巌祿など提唱祿を見ると面白いんです、ノ−ベル賞ものですよ、なんでもかんでもなんです、本人はポンチ絵、つまりマンガを見ろなんて云ってたんですが、仏教語の解説やら、坐禅の勧めじゃない、そんなもの天下にないと云いたげです、本来人です、おぎゃあと生まれて人こうあるっきりないっていうんです。」


「でなかったら自由の分がない。」

「なんのための悟りであり仏教ですか。」


「忘我のためではないんですか?」

「忘れたっきりじゃいられないんですよ。」


「もどって来て平地に立つんですね。」

「他ないんです。」


「でもそれたいへんな力量がいるんじゃないんですか?」

「そんなことないです。」


「だって今のような多種多様社会にあって七通八達って、大コンピュ−タ−なみの能力がいる。」

「赤ん坊の目で足ります、知らんことは知らぬでいい、光陰として過るものすべて、そのすべてのまっただ中にこうあるんです。」


「たとえばピカソの絵がある、ちんぷんかんぷんの代名詞。」

「そんなことはない、あれほどたしかで、洗練された表現力ってないんです。」


「それは見方を知った人の。」

「絵描きはすべての人のために描きます。」


「批評眼に歴史的背景とか。」

「生活そのものです。」


「ルネッサンスの全人格にプラスアルファ。」

「ただの人です。」


「そんなことができるんだろうか?」

「目は横鼻が縦ならできます。」


「心理学とかへんな現代流、ないしは心身症におかされない、すばらしい人生。という。」

「たった一人木の葉っぱと揺れているってやつです。」

 


「良寛さんは子供とだけ付き合って、まったく社会にそっぽを向くようにみえますが。」

「そっぽを向こうが平行線だろうが、ちゃんと生きています。」


「好きなことばっかりしてですか?」

「子供と付き合うことが、そう簡単でないことは、いっときやってみればいいんです、自分の貪嗔痴を殺すのに、絶好のチャンスです、良寛さんと子供が呼ぶ、は−いと出る、子供いない、ひっこむとまた良寛さん、は−いと半日やっている、良寛のとぼけ顔が面白いんです。良寛さんあというのがあります、あというほどに、身を反らす、さば折りになってしまい倒れる、あれはもう年だから止めさせてくれ、自分でそういえ、いやそれがどうもというんです。一生不離叢林(僧迦を離れず)の、子供というのがきっと、良寛さんの規矩だったんです。」


「それはたいへんなことですね。」

「ホ−ムレスのふしだら得手勝手ではないんです、実にきちんとしています、地球上の人間以外のものが、たいていそうです、わがままな、やりたいほうだいなんてないんです、悟り終わって悟りなしの実際です、自由無礙とはそういうことです。」


「普通の生活をしたとしたらどうでしょう?」

「特別のことなんかしてないんです。」


「でもサラリ−マンとか、その。」

「だれだって一番気に入ったことする権利があります、今は今のように、道を専一にすりゃいいんです、つまらんことしたくない、でもやれっちゃできないことないんです。」

 


「歌や詩に生きる、書をかくということは、道を専一とどうなるんですか?」

「なにをしたってだから悪いってことない、即今即今その中ってこってす。」


「良寛歌は道歌というよりも、花は花に風は風のまんまというか、面白い哀しいってそのまんまですが。」

「面白い哀しいそのまんまが、ほんとうに出来るんです。」


「ほんとうにできる、道を専一ですか?」

「道といって、どこにそんなものがあるかっていうんです、あったら枠にはまる、なかったら自ずからです、ちらともあり、あるいは世の中しきたり通念思想宗教他にとらわれるから、不自然ふしだら余計ごとになるんです、たとえば、『春は花夏時鳥秋紅葉冬雪ふりて涼しかりける』というのは、もと道元禅師の御歌です、それをそっくりもって、良寛さんの歌だと人が思っていたりする、著作権云々とどっちが正しいか、万葉の歌も花を見てすばらしいとなりゃ、そりゃもう自分の歌です、一言半句違ったろうが同じだろうがいいんです。」


「万葉といえば、良寛さんの歌材について調べた高校生がいたんです。そうしたら決まりきった“松にさくらに時鳥”っていうほかなかった、新しい工夫とか今の多種多様とは無縁なんですね?」

「そりゃそうなんです、歌という伝統は一木一草空の雲にいたるまで、シンボライズっていうんですか、一個人の趣味なぞほとんど入る余地がないんです、二千年あるいは五千年もっとかけてそういうふうにできあがっている、芭蕉は新しいものを付け加えるのに、命がけの苦労をしている、おいそれとはいかんのです、良寛はたいていそんなことはしない、平然人まねまでやってのけて、伝統の大海に楽しむんです、もしくはそれには技術がいるってことです。」


「道とは無関係?」

「すべてが無関係です、これを道というんです。如来というんでしょう、来たる如しなんです、ものみな百パ−セントそのものずばりです。」

 


もう一つ良寛さんですが、『ここのまり十まりつきてつきおさむ十ずつ十を百と知りなば』、という歌があります、これに付けて貞心尼が、『君なくば千たび百たびつけりとも十ずつ十を百と知らじおや』と歌っています、どういうことですか?」

「まりを一つつく、つきながらほんとうにつくことができない、だから不満でありがさごそと騒々しいんです、淋しいんです、ひいては人類百万年の歴史が、この不満足淋しさから引き起こされたごたごたです。お釈迦様はそこを哀れんで、只管打坐という、まったか手つかずのただという、広大慈門をお開きになったんです、いいですか、心して狭き門より入れという、狭い門から入ったら、狭いまんまです、そうじゃないんです、今あるたった一つをほんとうにする、その他まったくないんです。」


「そういう人がいなくなったら、世の中いったいどうなるかということですね。」

「幸いここにあります。」


「方法を知る人、無為の真人というんですか?」

「そういうことなんにも云わない、ただの人です。」


「名もないが正解?」

「いいえあなた自身です、常行なわれつくすところに、ちらとも目を向けて下さい。」


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