青山常運歩


 青山常運歩は思想常識の至るにあらずです(そりゃどんな命題−公案もそうです、たった一つ解けばまったく終わるんです。)、ただの風景なんです、我のうして見る風景です、なってみりゃなんだこれって、なってみなけりゃ千万里でどうにもこうにもです。その千万断崖絶壁を、思想で越えようとしないんです、ああもしこうもすりゃなるってやって、そいつがどうもならんと知った時にようやく近いんです。
 ただ坐る只管打坐に近づく。

 近づいたってだめなんです。始めにしかし只管打坐、坐るということの内容についていいますと、身心ともになしは、文字通りなんにもないんです、自分を観察することがない、これね、なみの人には決して出来ないんですよ、坐ったって坐禅にならないんです、でも私とこへ来た人は平均三ケ月といっていい、自分と環境との垣根が外れるんです、神秘体験じゃない、ただの現実です、なにたいてい坐ってりゃなるもんなんです、下らぬ仏法だの余計ことせねばじきです。

 化かされたと思って坐ってごらんなさい、なに出て来たって、とやこうなしのまっしぐら、馬鹿んなって坐すんです、坐のほうが自分をどっかへつれてってくれる、そいつがおもしろい、私という思想はなんの責任も取らない、糸の切れた蛸の行き当りばったり。
そうしてね、忘我という、我と有情と同時成道という、一瞬なんです。あのくたらさんみゃくさんぼだいという、忘我からはあっと我に返る一瞬です。
 すべてがあるんですよ。

 失礼ですが私は仏教知識に関する限り、どんな学者たとい釈尊が出たって負けないです。でも仏教の勉強ってしたことないんです。仏教用語って、これなんだって聞くと、たいてい間違った学者説、違うよそうじゃないんだって指摘します、どういうことかというと、
 悟−見るイコ−ル仏教のすべてってことです。
 知識はそのあとのものです。
 ですから先ず捨てるんです、どんなに精妙な仏教知識も二束三文です。
 初心に返るよりないんです、自分は三つの赤ん坊のようにまったく取りえなしです。
 なんにもわかりません。

 今わたしはあなたにこう説いて、ずいぶん長い間自分を捨てられなかったんです。
 自分を捨てる、死ぬのと同じです、死ぬのはつらいです、生きていたいんです。
 そうして結局だめにしてしまう、東山水上行をそっくり身ながら、そいつが紙っぺらのようになったり、要するに中心にあるべき、無心が有心に化けてしまっている、こんちきしょうめってんで落着なし。
 捨てるこれっきりです。
 見事に捨ておほせて下さい。

 忘我の術はアルタミラ洞窟壁画の太古からあります。
 でも釈尊のように捨て切った人は他にないんです。
 さあその釈尊を捨てて下さい。
 たとい自他の垣根が外れようとも、それを見ている自分があっては、つなげる駒です。
 一切終わって下さい。

 当然ですよ、私一個ここにこうあるんです、人知も釈尊もインタ−ネットもへちまもないんです、おれと大地有情とこうあるんです、だれがなにに責任取るなんてないんです、どうしたいんだ、仏が欲しいのか自分が欲しいのか、自分てなんだ、ねえちゃんとやりてえのか、だったらやりゃいい、ねえちゃんなんかつまらん、地球と一発ってんならやりゃいい、宇宙を支配したいんなら支配するんです。文字通りのこってすよ。
 一対全体の対決です、まるっきり遠慮はいらんのです。


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