悟り終わって悟りなし
ダライラマが仏教タイムズのインタ−ビュ−に答えて、「悟のないのは仏教とはいえない。」
と云った、そりゃただの信仰だと、わたしのまだ出家して間もないころだった、
「へえチベット仏教なんてたいしたことないと思ってたけど、しっかりしてるじゃないか。」
そう思ったことだった。そりゃ悟なければ、仏教ではない。悟なければ、他の常識ごと殺し文句と同じです。悟があるから、たといどのような問題にも答えを出すことができる。
ですから普通には取り付く島もないふうに見える、そりゃそうなんです、一般常識で解釈できるんなら、そりゃそれだけのものです、なにかあると総崩れになっちまうです。
そうじゃないんです、金剛不壊と云われる本来のありようです、帰家穏坐です、シャバに吹き荒れるどんな嵐もここに来れば、まったく納まる。
そうでなけりゃ役立たず、仮にも宗教とは云えんのです。
他の宗教は信不信による、鰯の頭も信心からです、らしく眼蔵牽強不会も、こうだってんで信じ込んでお人形さんやってりゃ、そりゃまあ信仰とは云える。
でも仏は信不信によらぬ。信仰の荒唐無稽を取らないんです。一よければ多悪い、たいていひとりよがりの信仰です。宗教の功罪罪のほうがよっぽど大きい、人類の歴史が証明するところです。
そりゃ思想イデオロギ−も一神教の延長上にあった。
人間も目を覚ます必要がある。
如来来たる如し、ものをあるがように受け入れる以外にないこと、真実相です、いらんものよけいことは不要というんです。
これが釈尊の教えです。
ところがことはまったく単純だったんです。
一切事について思いつくかぎりを試みて、
「ついになんにもならず」
刀折れ矢尽きて、ガンジス河の辺菩提樹下に座す、手つかずなんです、なにをどうしてもどうにもならんから、自ずから諸縁を放捨です。するとこういうことが起こった、身心が失せるんです、生まれたまんまに戻ったといったらいいか、生まれる以前というべきか、体も失せ心も失せ、身心の失せたことにも気がつかない、忘我です。
心意識の欠如なんですよ、それがたまたま明けの明星によって一念起こるんです。
「我と有情と同時成道」
自分というものまったくなくってものみなあるんです。こりゃやってみなくっちゃとうていわからんです。類推の識域を超えるんです、宇宙と一体化するっていえばそういうこったろうが、じゃそれを観察するっていう余計ものがない。
とやこういったってしょうがない、やってみるっきゃないし、たとい理由付けは二束三文です、うれしくもなけりゃ実際でもないもの、いくらひけらかしたってアホらしいってより、ただの害悪です。
驚くべきことに仏教一切事すべてこの一瞬に成立するんです。
「この宗ごう末なれども一切沙界含容す」
もと如来としてあったものが、いつのまにか自分も知らぬまに迷い出して、ついにわけがわからなくなっている、それをもう一度きしっともとに戻してやる。
戻ったとたんあ−そうかっていうんです、他になんにもなかった、わずかに自分という架空現象の思い込みがあった、それによってとたんの苦しみがあった、今雲散霧消する、脱落身心です。真実相です、如来来たる如し、まさにこの通りというんです。
五祖禅師がおうむしょじゅうにいしょうごうしんの一語に悟ったのは実にこれです。
般若心経に端的に記されています。
悟とは人間のメカニックそのものです、一回的にこうあるんです。メカというと外部操作ができるんですが、こりゃ自分のこったでどうもこうもってことになる。正師につく以外ないと云われるゆえんです、無心から有心へ迷い出て無心に帰る、もと無眼耳鼻舌身意です、二二んが四みたい簡単です。正師−たまたま先にやってみたんです。ノウハウがあるんです。
いろんなこと云うのはわからん人です。
次に悟を得たとはもとへ戻ったということなんです、もとへという本来復帰は一回こっきりです。だから、
「悟を得て悟のないことに気がつく」
んです。ここが言葉の上の理解では首かしげちまうんですが、実際にはこうなってるってだけです。
ですから悟った人は悟りを云わない、悟らない人がいろいろ云う。ここを坊主どもは故意か偶然か−頭悪いってだけだけどさ−間違えるんです。なんと自分が生まれつきお釈迦さん〜道元さんだっていうわけです、いやはやってただのでたらめですよ。無心忘我体験のないことには、
「自分というどしようもないもの」
にけりがついていないんです。だったらなんにもならない、我欲の為にしかできない、仏教のこといってるようで、おれがおれがって云ってるだけ、しかもなにかというと洞喝するのは、仲間を頼んでの他なんにもないからです。仏教はほんらい仏、いろんな人もいいけど、たった一人もいいんです、すなおで余計ことしない。草や木や鳥や雲の仲間なんです。強いていえば生きている楽しさですか、それが一体化してこうあるんですよ。理屈なんか云ってないで、どこのだれだって関係なく、お釈迦さんの追体験なんです。行ないすますとからしくの世界じゃない、実のことです。
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