悟り 


 悟りはたった一回きりのもので、思想や考え方の延長にはなく、各人各様のものでなく、二二んが四というほどはっきりしいていて、お釈迦さんの悟りと他のいかなる人の悟りも、寸分違わぬ、心のメカニックとしてあるものです。

 香巌爆竹の因縁−香巌という非常に聡明な人があった、一を聞けば十を知る、目から鼻へ抜けるというふうで、ああいえばこういう、どうもならんので、師が、
「おまえの父母の生まれる前のおまえの眉毛はどんなふうだった。」と聞く。さあわからなくなった、これしきのことがわからんようでは、とっても坊主やってられんというので、寺男になって、来る日も来る日も庭を掃いていた。あるとき掃いた小石が、竹藪の竹に当たって音を立てる、これを機縁に悟るんです、かつねん大悟とあります、まんがじゃない、実話です。
 どういうことかわかりますか。

 父母未生前の消息−師の設問はでたらめじゃないんです、おぎゃあとこの世に生まれて、父母未生前から、この世にたたき込まれるんです。生まれついては、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法なんです、自分というものがない、自分を意識することがない、自他の区別がまったくないんです、父母の生まれる前のおまえの眉毛=悟りとはこのまっぱじめにもういっぺん戻ってみることです。
 自分がない状態から自分が生じて行く、たしかに人間として一丁前の生活を営むには、それ以外の方法はない、けれども現実を概念化する、有眼耳鼻舌身意、有色声香味触法です、実際ではない、あると思えという架空の生活です、仮の自分なんです。

 すべての問題はここから起こる。架空と現実のずれ、砂上楼格、思い込みです、思い込み人間がおのれを省みる、どうもならんのです−五蘊は皆空なりと知って、一切の苦厄を免れるんです。
 ものごころつく前にやったことを、もういっぺんやると、心のメカニックというものが、はっきりする、迷わない、すべての迷うのもとを知る、ものみな解決済みなんです。
 ですから悟り終わって悟りなしといいます。

 その方法は一通りあります。(仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘れるなり。)です。
 自己を習うとは、ああだこうだいってないんです、概念化したところを免れるのに、悟りはどうの何はどうのやってたら、百年河清を待つです、目から鼻へ抜ける香巌が、どうもならん理屈です。
 自己を習うとは、思想概念の主人たる自分を発見の旅です、捨てる旅です、思想概念を自分と思い込む、では自分を捨てるんです、坊主やってられんといって寺男です、むかし坊主=神さまってことあったんですよ、寺男じゃ死んだも同然だったんです。そうして死ぬんです。
 自分を捨てて庭を掃くっきりになるんです、掃くっきりになる、自分もない庭もない、掃くもない、すなわち忘我。
 忘我とは忘我していることを知らないんです。
 たまたま小石が竹に当たる音に、はあっと我に返るんです。
 
 自分が失せて一切がある、通常の体験とはぜんぜん違います、我と大地有情と成仏といった、お釈迦さんと同時成道するんです、一瞬に仏教の成立があります。不思議に自分=世間すなわち人間を卒業しているんです。
 悟り終わってようやく地球のお仲間入り、悟る以前は地球のお荷物。
 如来来たる如し、花のようにぽっかりと咲くんです、月のように自ずからあり、万物とともに、雪は雪降る。
 むかしも今も寸分変わらぬのは、意識妄念によらぬからです。
 まんがでなくって真剣に求める人はどうぞ。今だってまったくちゃ−んとしてますよ。


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