悟りっていうの、物理現象といったほうがいいほどで


 悟りを開くのは開き損なうってことあるかも知れませんが、悟りっていうの、物理現象といったほうがいいほどで、失敗とか無に閉じ込められるとか、ややっこしいこととまったく無縁ですよ。
 忘我というんです、身心ともにないんです、忘我の本来は忘我している自分を知らないんです。一念起こって、つまり忘我から引き返すことあって、はあっと気がつく、このときに自分というものなしに、すべてが存在するのを通身から知るのです。本来終わり初物といって、それっきりのものです。
 無は神であり、無信仰であり、無の部屋でありみ無限地獄云々のことは、悟ではなくそういう思い込みです、自ら囚われているんです、表裏一体とかいって、囚われるところに説明を付け体系化しようとする、妄想が妄想を呼ぶんです。
 悟りはそうじゃないんです。忘我して自分というものからいったんまったく離れると、もとあるまんまケイゲなし、なにごとも取り付くことない、ほんとうの現実があります。

 ですから、
「無は神だったのです」といったとたん「有は神だった」「無は無だった」「無なんかありえない」「そんなこともこんなことも知らない」100通りぐらいの仏語だろうが、聖書の文句だろうが朝飯前ってことです。人間の言葉も思想も、言葉は言葉思想は思想ということです、あってもいいし、なくってもいい、水の辺に文字を書いたってなんにも残らない理屈です。しかもそういうものが壊滅したってこっちゃないんです、強いていえば出入り自由ですか、思想言葉をこっちが使う、使われない、奴隷にならないっていう、当然事です。
「天国と地獄は表裏一体」という、石ころ一つそのようなせまっ苦しいハンチュウにないこと、とくと見て下さい、生まれて三つ四つ、あるいは十のころまで、そんな変な言葉で自分を縛らなかったはず、いや大人になった今のほうが思考分別あって正しいという、そりゃ間違いです。天国も地獄も知らない人−人以外万物みんなそうです、は天国や地獄に悩まないんです、だったらそっちのほうがよっぽど正解です。

 無はないんでしょう、ないものにどうして苦しめられるんです。少なくとも三つの子供はそんなバカなこといわないです。
 ツマラナイモノなんていってみるからつまらない、自分がなにをやっているか、なんてドアホなことをしているか省みるにいいです。この無欠のものを与えられて、とやこうあ−でもないと手枷足かせサドマゾ、だれに頼まれたんでもない、そんなつまらんことないです。


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