論の尽きたところ
う−ん論の尽きたところしか、この道ないんだけどな、学者仏教や2000年歴史の垢じゃないってこと気がつく人と、そうでない人といる。仏教論議なんてとりわけつまらないのにさ。だってもと砂上楼閣だってのに。わたし砂上楼閣でもない幾つかについて18〜25歳にとことんやったです。どっかで云ったけど、ドストエ−フスキ−、ニイチェ、カフカ、ゲ−テ、シェ−クスピア、アイスキロス、リルケ、カロッサ、モ−ツアルト、ゴッホ、ピカソ、セザンヌ、芭蕉、万葉、つれづれ草とかです。徹底してやりましたよ、論を尽くすなんてもんじゃない、命がけってな、刺し違えるんです、破れほうけ死んで蘇るってのだったです。だから今だってたいてい文芸評論家とか学者の論なんて、あほらしくって聞いてられんですよ。それにむかしから学者とかなっちゃなかったけど、今様学者ほとんど意味をなさんてふうです、これほんと。ドストエ−フスキ−は今の日本の心を解明するのに決して古くさくはなってないです。いいですか、こと論文という非論理的なもの、じつに野蛮野卑な品物です、ほんとうに論じつくすとは芭蕉の俳句です。論者と論とそれを聞くものとがぴったり一致する、論とはこれ以外にありえないんです。この点で白川静さんは唯一尊敬できる学者です。彼はなん10回なん1000回のトレ−スをもって思想を生み出す、それは向こうにあるんです、自分の発明という不完全いい加減の入る余地がない。いいですか、万葉を研究するとは万葉の歌一つあるいは三つそっくりに作ってみるということしかない、本歌取りだろうが一句でもあとの句でもいい、そっくり使えるかということ以外になく、他の研究がなんの意味もなさぬことを知るんです。このあいだ平家物語の琵琶を弾じて物語るのをちらと聞いた、感動だった、日本人はこうあったんだという、涙ぼうだ。これを研究するとは研究のあとかた失せるということだ、平家の語りだけが生き生きと残る、これ以外に研究の成果なんぞあるものか。
わたしの出家の原因はモ−ツアルトだった、人をたぶらかしための悪魔の発明といわれる、とことんくらいついてついに破れほうけ、これ西欧一神教文明の極致なんです、どういうことかというと、しごく簡単なことなんだけれども、死ぬ思いの七転八倒があり、これを人に説明しても、そうねえだれも聞いてくれなかった。
でも出家のちの苦労はモ−ツアルトを免れることだったです、一切を捨てないと一個にはなりえぬ、これが仏教の鉄則です、すべては自分=世の中という架空のでっちあげなんです、思い込みです、このうわっつら一枚はぐのに人は大苦労する。坐禅は正直なもので捨てられていないと坐が坐にならんのです。(これ故に只管打坐なんです、臨済の公案禅無字だの隻手という近道はどうあったろうがかえって遠い道なんです−公案なんて100でも200でもいっぺんにといてみせますよ。)いいですか、仏教の根幹はここにあるんです、仏教辺を知るなら知らない人になるんです、これできないとどうしようもない、せっかくの縁も縁にならない。モ−ツアルトはなかなか離れてくれなかったです、なん十年とかかった覚えがあります。
でどうかというと、モ−ツアルトをときたま聞いて涙流したり、ピ−ピ−口笛吹いたりしてますよ。
ここのところが勉強学問の人にはわからないんです、モ−ツアルトを免れること、これほんとうにモ−ツアルトになりきれるんです。
忘我という仏教の肝心要を知らない禅宗旨仏教学者が増えています、これないと「今の世はこういうふうにしにゃいかん〜だから」とかいってただの常識ごとに終わるんです、むかしの学者のほうがまだしもましだった。他愛ないんです、わざわざ仏教を借りる必要がないってのに、なんで仏教なのか。
解脱とは解脱する以外なんにもないんです。云いうるだけ違うんです。解脱人が他のためにするのは、自分がないからです、人間とは自他のかけはしです、自分=他人です。すると迷悟中の人は、そんなことありえないという、ひっくりかえってしまうという。字義思想意見としては自他なし無眼耳鼻舌身意はめちゃくちゃになっちまう。そうじゃないんです、ほんらいほんとうっていうだけです。衆生済度とは衆生済度があるんじゃない、ほんらいほんとうがあるっきりです。衆生済度の他にはないんです。
仏教をいいながらただの雑念ということに気がつかない。どうかそのようなことを脱して下さい、無位の真人=ただの人になって下さい、生まれついての本来人=如来です、他にはないんです。
戻る