念我と忘我
茶碗の中にころりと入ること、無眼耳鼻舌身意なんです。自分と思い込んでいる身心があるときふっ消える、ほんらいまるっきりないんです、大には方所を絶し、細には無間に入るといいます。アッハハちょっとこれけっこう難しいんです。わたしの兄弟子がかつて参禅に、いくたび接心やっても同じところへ行く。自分は自分だっていう、あるいはな−んにもないっていうふうでいて、しっくりいかない、どっかお釣りが出るのは、そういってる自分が残るからです。えいこんちくしょう、おれも男だってんで不眠不休で坐り出した。だめだったらいっそ死ねとかいって、井戸の上に板さし渡して坐っておったそうです。なんたってもうめっちゃくちゃです。すると飯台に汁椀を持って、汁を吸い終わったら、そのお椀の中にころっと入っていた。お椀が自分でこっち見ている感じ−
そのあと天下取ったってふうでもって、老師逆さに吊るしていたとかいってた。てめえもちんちくりんのくせに、よく吊るしおったっていたって、うらやましいと思ったです。
自分という垣根が取れるんです、自分がいったん消える、そうするとぴったり納まって、もう元に戻らない分がある、そりゃ身心ともになんです。だからこっち悟ったなんて持って行かずとも、師のほうでわかる。
念我と忘我と行ったり来たりではなく、行って帰るんです。
至り得帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。
とあるとおりです。
でもね、念我と忘我のことは、後にまま問題になって来るんです、たしかに悟った、でもどっかがって思いする人多いんです、これもういっぺんやってみると納まるんですが、結局は念我と忘我の問題ってことあるんです。双方ともに跡形なく消える、どっちもないんですよ。
水鳥の行くも返るも跡絶えてされども法は忘れざりけれ。ということです。
音と一つんなることからやってみて下さい。
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