南宗北宗


 南宗と北宗は、六祖大鑑慧能禅師と神秀上座の逸話でしょう。慧能もと技量なし、樵夫のおっさんであった六祖さんが、つまり六代を継いだんだから、神秀の北禅は付けたし、並び称されるにはちょっとと思うのに、学者が取り上げて今に至っている。実際まったく比較にはならんのです。ただいつの世でも神秀的仏教、あるいは禅というものがあり、禅定力だの、心を練るといい、立派な格好の人格を形成しようとする。実用向きゼニカネってふうです。有心です。無心を説く仏教とは相容れないんです。でも、禅道場といい、師家といい、無心を説きながら実は有心という場合が多いです。したがい、南禅北禅の問題が蒸し返されるってことかと思います。

 五祖禅師の後継に、時の皇后の家庭教師をしたという神秀、人格教養抜群、われこそはと自他ともに認めるところです、とつおいつの末に一偈を壁に貼りつけた。
 身は是れ菩提樹、
 心は明鏡台の如し、
 時々に務めて払拭して、
 塵埃を惹かしむること勿れ。
という、目に一丁字もない六祖禅師、寺童に読んで貰って、そうかそんならおれにも出来るといって、代書して貰って貼りつけた。
 菩提もと樹に非ず、
 明鏡亦台に在らず、
 本来無一物、
 何れの処にか塵埃を惹かん。
とはまあ、こういいたくなるところです。

 身はこれ菩提樹という、仏の道の完成という絵に描いた餅です、自分が自分を観察して、まだまだ、いいやもう少しとか、立派になったとかやる。他人の物差しを借りて推し量るにしたって、じゃそうやって計っている自分はどうなるってことです。二分裂です。しゅんじゅんとやこうする筈です、絶対に結果は出ない。
 よかったり悪かったりの繰り返し、せいぜいがだんだんよくなる法華の太鼓と、そういう自分をなぜくってみるだけです。これが北宗の正体です。
 うすぎたないんですよ。インドの修行者というのもたいてい同類です。いわば人に見せる為の禅であり、立派さ加減なんです。お釈迦さんはそんなことじゃ満足しなかった。何にもならんじゃないかってわけです。

 そうじゃない、菩提もと樹にあらず、そうやって眺めているかぎりは嘘だ、明鏡も台にあらず、おのれ本来なければ、あらゆるものがそっくり映る、たしかに仏の真髄だ、でも真髄ってものがあったら、そりゃ不自由です、ほんものじゃない。
 ここが仏の仏たる所以です。どうも今昔これが大問題です。

 ここを通過するか否か。
 たしかに仏教のいうところ、まさなこの通りと、七通八達、つうかあになりながら、そういっている自分がちらとも残れば、本来無一物にはならない。
 繋げる駒ふくせるネズミです、その綱をほっと切る、ぼかんとな−んにもなくなる、なんにもないという自分がない、文句の付けようがないとは、付ける自分がいないんです。何れの処にか塵埃を惹かん、です。

 これは到達しえた境地ではない、もとのありよう、おぎゃあと生まれたらこうあったんです。それを転倒夢想の故に、自分というお仕着せ−架空を中心として生きて来た、砂上楼閣です。うまく行くはずがない、こっちの岸此岸です。もういっぺん生まれたまんまに戻る、あっちの岸彼岸です。すると不思議にぴったり行く。ふつうなかなか行かない、座禅は忘我の為の手段ですが、手を用いて無理押ししてもよくないです、自然成只管打坐です。六祖禅師は薪を樵って町へ売りに行くという、それっきりに成り終わる、気がついたら応無所住而生其心とこうあったんです。本来無一物ものみなそっくりとこうあったんです。
 わがことまったく終わるんです。

 自分というこれは手付かずでいいということを知る。因みに、
「手つかずでいいから。」
といわれて、自分に手をつけないことが出来ますか。
できない、
「時々に務めて。」
というんです。甲斐がないんです。
 たしかに五体満足、そりゃ不満足でもいいです、心このとおりにあり、付け足したってなんにもならない、付け足しても付け足せず、減らそうにも損なおうにも、これっから先も減らないんです。
 こう出来上がっているからこそ、存在体です。

 如来、来たる如しこれ。
 花も鳥も大空の雲も、人間以外皆如来です、違いますか。妄想観念、手をつける者と付けられる者が同じということ、不必要不都合です。
 即ち何れの所にか塵埃を惹かんと、どうかこれを手に入れて下さい、そうして六祖と神秀のなんたるかを知って下さい。人間とはかくあるという、たったこの南北がオ−ル全部ってことです。どんな人もどっちかってこと、必ず六祖ってことです。


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