無心の法
仏教のことは、まったく始めてっていうのがかえって好都合と思います。仏教という先入主なしに、すんなりもとあるがまんまってことです。
1仏はほどけ<飯田とう陰老師
自縄自縛している縄をほどけ、ほどき終わればもと仏。仏法として別にあるものじゃないんです、だから習い覚えることじゃない、かえって外す取り去る−捨てる道だと思って下さい。自分とは何かという=自縄自縛の縄、(道徳とか世間事とか宗教だの科学だのなんだのかんだの、今聞いた事実さへそれをもって自分を縛る縄にする、だれに云われたわけでもないのに。)これを従前の心という、では自縄自縛の縄をほどきおわった(ほんのはしっこ一つほどけば全体ほどけるものです。)これを本来心といいます−心に二心あり<心銘。
2仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり<道元禅師正法眼蔵
仏教が欲しいのか自分のほんらいが欲しいのか、もし仏教が欲しいとなれば、それは百年河清を待つです(仏教というがものはもと存在しないからです、たとい仏教を得て肝心の我が満足しなけりゃな−んもならんです。)〜自己を習うなりは、そりゃ他の諸宗もいいます、でも自己を忘れることは、仏教の根本です。これのうしては結局どうもならんです。無心ということなんです、ないものは文句の付けようがない、有るものは絶えずああでもないこうでもない、自己の正当性を主張し続ける、徒労に終わるんです、これを有心といいます。
3仏足石
ガンダ−ラ以前の仏像というと仏足石といって、石の上に二つ足型が刻んであった、これお釈迦さん如来の足跡です。どういうことかというと、たった今もここにお釈迦さんが立っておいでになるんです、どこに、見えるもの森であり小鳥であり空の雲であり、人であり人家でありする。そうですお釈迦さんです。如来来たる如し、如去去れる如しと同時漢訳される<三蔵法師、これの実際です、ないんです。身心ともになし、悟りはこれを知る、これを得るんです、もと与えられたほんらい空です。無眼耳鼻舌身意です、徹底して知る−忘我です、我を無うしてものみなある、悉皆成仏です。仏足石は、人はだれでも−人以外でもです、その上に乗ることができる。お釈迦さんになって、来たる如しとこうあるんです、群生の永えにこの中に使用する、各々の方面に知覚を残さずと<修証義
4坐禅
心の問題です、身心をあげての問題です、心が心を扱うことをしていては、いつまでたってもなんにもなりません、速やかにあり明きらめて、対峙を双眠<心銘すべきです、つまりあらゆる一切が、たった一つこの我が身心の辺ということ、他にはない、棺桶に入るのに世間がらくたいらんといったふうです。真に問えばこの身心必ず答えてくれる、他一切いらないってことです。
5仏教は問答のものです、どんな問いにもいつだってお答えいたしますので、どうぞ。
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