無心


 本来の能力というより、なんにもないっていうこと、能力主義主張の器です、どんな能力もその器なりに備えることができ、いかな主義主張も取ったり外したりできる、エゴとかなんとかでない、人本来そう出来ているんでしょう。
 まっさらな白紙ならなんでも書ける、いろんなこと、あるいはちらっとでも書いてあったら、書き込みに具合が悪い。
 でもってその白紙書いても書いてもまっさら、まっさらのくせに書いたことは、うっかりぽっかりしなけりゃたいてい役立つ。うっかりぽっかりも役立つ。

 どうです、心とはそういうものじゃないですか。
 無心というんですよ。
 無心が本来です、それを有心をもってする、主義主張あり、だから−ねばならぬという、なにかしらを持つ、本末転倒です、それによって使われてしまう。
 これは身心のありようを知る道です。
 エゴになる坊主になるならぬ等でない、

「もとこうあるのを、どうしてか、いつのまにやら迷い出して、わけがわからなくなっている、それをもういっぺんもとに戻そう。」
という試みです。結果は必ず得られます。

 え−とそうですね、般若心経のはじめにこうあります、観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
 自由自在に見る菩薩、なんのとらわれもなく見る、見解によらない、主義主張でもって見ないんです、菩薩=あなた、赤ん坊のようにまっさらにというんです。
 般若波羅蜜多、パ−ラミ−タ−彼岸に渡ると訳します。彼岸、ものみな一切自分のものではないんでしょう、自分の生まれる以前からこうあるんです。にもかかわらず物心つくにしたがい、自分というものから物を見る、自分中心に世界が回る。これをこっちの岸此岸という。つまり握り締めたものを手放す、放てば掌に満てり。彼岸に渡る、もとの木阿弥に帰するんです。
 すると照見五蘊皆空、思考したり主張したり、よかったり悪かったり、めちゃくちゃだったり、すばらしかったりのあらゆる一切が、世間=自分の作り事だった、もと根なし草だったと知る。
 自分というこの身心までも架空事だった、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
 度一切苦厄、人の苦しみ厄介ごと一切が、架空事をほんとうとする、自分のものでないのをよこしまにする、ないものを有ると思い違えることによって生ずる。
 こうと知って雲散霧消するというんです。

 理屈は単純なんですが、思いもよらぬふうなんです、因みにわたしは、正師に就いて半年もの間、はてなあってやってました。
 どうしても思想観念の延長上に考えてしまうんです。
 そうでなくって、思想し観念するその主体、心意識そのものの実体なんです。
 実生活何しようと関係ないんです。
 なんていうのかな、人間の基本わざ−もとっからこうある、たまたま気がつかないっていうんですか。


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