無字公案  


 趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、無。
 趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、有。
 二つともたしか無門関にのってたと思います。
 犬に仏性があるか、有るといえば情解に落つ、無いといえば空忍に堕す、さあ云えっていうんです。なかなか一筋縄では行かない。趙州和尚無といって、むうの中にまるっきり消えてしまう、虚空ぜんたい無になっちゃうです。
 古来無門関の第一則たるゆえんはこれです。
「無になって来い。」
 というんです。からすがかあ鶯が−ホケキョでもいいですよ、ほんとうになり切ってやってごらんなさい、でなきゃ生きてる甲斐がない、一生の脇見運転というのです。「む−」
 心機丹田に無の字を置いて、それを見つめ見つめして行く、発心寺無字の公案、不眠不休でやっとったですよ、そのうちばからしくなった、ちえ−おれは人間さまだ、お猿じゃね−んだとかいって飛び出した。
 でもとにかく無の字です、これなんとかせんと仏教もへちまもない、隻手の公案も一隻眼を得るにしたって、みなこの工夫なんです。
まあ便法ですか。

 でもね、近道卻って遠いってことあります、自分というものをほんとうに一掃するには、ただの法手つかずの方法なんです。
 自分をいったん忘れ去る、なぜにってこと知らんきゃだめです、忘我の必然性、悟の一回的、無限とか限界がないとかいっているんでしょう、そりゃ別にそういう首枷かけなきゃいいってだけです。
 有るといえば限界無といえば無限というふうに囚われては、そりゃ失墜しちゃうです。
「ム−」
と一つ我を忘れていってみて下さい、始めて生きたって気になりますよ、そうしてやっと地球のお仲間入りです、仏教の哲学の臭いインキで貴重な紙材よごしたりしないんです、人類総反省ってね、ほおっと太息地球を呑却。


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