夢幻−未だかつて知らず


 虚空青空なければ、ものみな一切そのもの。夢の如く幻の如しとは、現実であればあるほど夢という、いいですか、自分を顧みる、あれはどうだった、だからおれはとかやってないそのものずばりの時、ほとんど記憶がないんです。現実感という追憶現象じゃない、たった今100%はかえって夢のようなんです。夢幻というほどに、驚天動地の現実感。一年三百六十五日夢とは、この実感です。夢だ幻だと言説の人がいう、まったく似ても似つかぬ真反対です。
 未だかつて知らぬもの。
 だれがどう見ようが、観察する人、そういう心があれば、それは無に、無心にならないんです。忘我を観察することはできない。一念起こってみて、はじめて我と有情と同時成仏を知る、これ−他のいう観察面とはまるっきり無縁の現実です。

 これを説くのに、実に筆舌に尽くしがたいんです。百聞は一見に及かずの、見りゃそれで終わる。そうしてこの宗ごうまつなれども一切沙界含容すとあるように、仏教のすべてが終わっているんです。
 大般若教も心経もないんです。一切が我と我が身心の上に具現する。我と我が身心の上になければ、そんなものはいらない、無用の長物−百害あって一利なしなんです。
 仏在世中あるいは、仏教二千年の歴史の間に、ああも説きこうも説いた。それはなんの為に。我と我が身心の上に、もとからこうあるものを悟らせるために。仏教があるんじゃないんです。膨大な仏教経典じゃないんです。学者に飯を食わせる為じゃない。仏教経典の説き違い−差異を見るとは、自分自身に未解決だからです。自分自身に未解決なら、どう経典を読んでも似て非なる結果です。本末転倒事を繰り返すばかりです。

 すべての名は仮なんて嘘です、仮がどうして真じゃないんですか。
 あなたご自身が先、仏教経典があとに従う、他にいったいどういう方法があります、経典はただの紙っぺら、あなたは大自在の千変万化する生きた現実です。
 因果律は生きた現実そのものです、因果律としてふりかえったとたん大火傷。
華厳よりねはんに至るんまでって、あなたおぎゃあと生まれて棺桶に入るまで、信不信に関係なく、まったく過たずにちゃ−んとこうあるんです、貫く貫かないなんてけちなこっちゃないんでしょう。どうです。


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