無というもの、ないものを持っているんです、ないんだからないのに、ないがある、アッハッハたいていこれにやられるんです、するとただもうつまんないことになります。
 ない=すべてがある 
 鏡ってないでしょう、だからみ−んな映る、その鏡から枠とかガラス抜いた、つまり自分という身の枠も心というガラスもまったくない人間鏡、これを無というんです。身心脱落は、自分という架空のものが雲散霧消する、枠とガラスが失せるんです、すると、まったく失せたときに、失せた−無ということに気がつかないんです、これを忘我といいます。忘我からはあっと我にかえって悟りなんです。
 物理現象といっていいけれども、物理学の外的操作の届くところではない、薬なんかどんなに発明したってそりゃだめです。
 自分の問題は自分でやるっきゃないです。
 過去なにがあったということを一切勘定しないんです。
 なにがあったと勘定できるということは、悟りから見ると、すべてが失敗できそくない=ただの妄想ということなんです。
 はっきりしてるんです−物理学のように。
 たった一つあって完全に納まり切る、したがって標準は、「これでいいのか」
 と問う、だれかれ悟りをえた仏教はどうのの、見栄も外聞もなく、我と我が身心に聞いて、
「よくない」
といったら、そりゃよくないんです。
 なぜか、というんです、水の中にあって渇きを求めているなにかしらある、そこへ目を向ける、真っ正面に向くとないんです。
 自分はどうだ、ああだという、まずまっさきにそれを捨てる、捨てるとやるせない、立場もプライドもなくなる、つい今までのわたしはという、そのやるせなさ、頼りなさこそ無の門なんです。


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