もとの木阿弥


 解脱という大悟徹底という、「もとの木阿弥に立ち返る」法は、言葉や哲学という、そういうこととまったく係わりがないんです、子どもが欲しい物を取るのに、とやこう理屈、云い訳なしと同じです。ただ取りやいいんです。
 ただ取るっていうのができない。ものみなただ取りゃいいのに、人生の多様性だの明晰だのいっている、ではそれで何がどうなる、なんにもならない。一木一草あっちむきこっちむきばっかりってね、だからちょっとこう免れるんです。

 人間同士の会話とか、世の常識ごととかいうのを、
「ほんの少しの間おれ留守するから。」
see you agein てやるんです。参禅てそういうことですよ。一人っきりになるんです、一人坐ってるのに、一人っきりになれない、そんなバカなっていうでしょう。
 だれしもそんなバカなんですよ。
 どうしても何事か求めるでしょう、そりゃ求めなければ、得られないんです。一人っきりになる、他所ことじゃない、なりふりかまわず求めるんです、求めるっきりになる、
 
 趙州因みに僧問う、如何なるか是れ仏法の真髄。
 ほとけの真髄ってなんだって、問うんです。趙州答えて云く、おまえさんの求めるのは、真髄じゃなくって皮袋だろうっていうんです。どうしても真髄、ほんとうぎりぎりのハ−ドコアってやるんですよ。そいつを皮っつらだろうって、人間という一筆書きする、そいつを三百六十度回転させると(数学的にはちょっと)皮袋になるでしょう、そいつが問題だっていうんです、人間の感覚器官この面つらについているんです。自分=皮つらなんですよ、こいつをぶち破れば、おしまい、自分=世間=皮袋が消えると、自然とか環境といって、外に見ていたものだけになる、内外なしです。

 はい仏教の真髄。


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