面壁九年


 だれにだって面壁九年があるんです、もっとも達磨さんの九年間はただ坐ってただけですよ、自性霊明といってね、我のうしてこうある、ものみな一切なんです、座禅が座禅になったら、だれでも出来ます。でも今は別の意に取ります。
 どうしてもどうにもならん自分との対決です。
 一宿覚といって一夜で徹底した人もあれば、往還に応無所住と聞いてすっかり終わった人もいます、阿難尊者のように何十年かかった人もいます。拈華微笑と得た人もいます。
 
 これ人まねしたってだめです。だからわたしの面壁九年はちっとも参考になりませんよ。要は色気の問題だと思っています、色気しゃばっ気あるかぎり、どっかでひっかかっていて、それが障りになってぼかっと消えないんです。なんにもなくなると、自由自在です、それをとことん知っていながら、ままならぬ、つなげる駒伏くせるネズミってね、すべては自分でやっている、自業自得です。

 わたしはモ−ツアルト大好き人間で、その好き好きモ−ツアルトがどっか行っちゃったんです、もうどうもならん、生きていたって仕方ない死のうと思った、死ぬより出家ってことあるって思ったのが、一生の不覚ってか、ことの始まりです。
 でもってまあすったもんだやって、う−んと、大悟十八ぺん小悟その数を知らずといったのは、白陰禅師ですが、そんなのちゃんちゃらおかしいってくらい悟って悟ったですよ。たんびにモ−ツアルトです、なんたってどうもこうもならなかった、ついに捨てるんですよ、=自分を捨てたんです。

 う−んどういったって、これ以上いえないな。
 捨てるが勝ち。
 でもって捨てた自分とモ−ツアルトと楽しくやってます。
 早く捨てりゃいいのに、まなんてこったという感想です。
 人生のいいときを費やしてしまった、後悔なんかしていませんよ、後悔する自分がないです。でもね、ぎゃていぎゃていはらぎゃてい、 早く彼岸にわたるこってす、だってだれにだってできるんです。
 死んで死んで死にきって思いのままにするわざぞよき


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