升田と大山


 将棋はほんのへぼ将棋だけど、将棋知るが知るまいが青春の血を沸かせた升田と大山、木村名人三つ巴の話。木村升田対決は戦争をはさんで三回四回する、ついに木村名人を香落ちに追い込んで、升田は身体不調とか云って指さなかった、名人を香落ちに指すのを心よしとしなかった。なんたって人間臭い男だった。今の名人五冠タイトルとか云ってるの、コンピュ−タ−に目鼻くっつけたようなの、そりゃきっと抜群強いんだろうけど、さっぱり面白くもなんともない。
「今に日本将棋もコンピュ−タ−に負けるようになるよ。」
って云ってるみたいだ、じゃ何が残る、将棋じゃない人間だって、もう一度云ってみたくなる。
 逸話の宝庫みたい升田は、将棋必勝法なんてのを考案して、そいつが何度か成功する。こうやったら勝つんだけど、それじゃ面白くないからこう指す、とか云って負けた試合もあった。そこへ行くと大山は目立たない、升田にこてんぱんにされちゃじっと我慢、
「なんたって升田だ、大山みたいのきらい。」
っていう、わたしふうのけっこう多かった。なぜきらいかって云うと、だってきらいってなもんで、升田の宮本武蔵人生劇場みたいの、大向こううならせるっていうか、けっこう毛だらけってとこ。
 詰め将棋をするようになって、木村名人のから何冊となく本を買って来てはやった。クイズとしちゃまことに面白い。木村名人のはすなおで入門編にいい、今様のものはトリックじみたりする。就中大山名人はすばらしい、これは詰め将棋という芸術だ、馥郁たるものがあった、
「そうか、すばらしい人だったんだな。」
と思う、なんせへぼ将棋はそこまでたって、大山かくの如くありって、なにほどか風景として残る。

 先日テレビで北アルプスで遭難して35日めに自力で這い出した男のことやっていた。35日めっちゃたいしたもんだと思ったら、どうも人っていうより、けものって感じ。遭難もどっかずさんなら登山届けも出さず、山歩きのいろはも知らぬ、沢へ迷い込んで日記をつける。食いものとせいぜいが家族母親に会いたい、もっといい子でいたかったとか、唯一の願いはいい結婚したいとか、これ男子一生の、
「いったいなんじゃあ。」
って云いたく−なるのはわしのようなアナクロか。
こんなもん死んだってちっとも惜しくはね−や、人間の尊厳もくそもなし、かたくり一株のほうがまだいいって云ったら死刑?
「人の死ぬるその言やよし」
ってのは今はなしかって、商売柄死体と番度び直面して、「死に顔はいい。」
 デスマスクじゃない、仏に帰っていると思う、曖昧煩雑が消える、妄想=自分が死ぬ、惜しむらくは生前にこの顔を得て欲しいと。
(食えないとなったら食いもののこと考えないのさ。断食三日で空腹感なくなるよ−胃が停止する。食いもののこと思うから食いたいのさ。)

 哲学だの思想とは云わぬ、だが少しは自らを顧みる。
 これなくんば人間とは云われぬ。
 そうさ、さっぱり面白くともなんともない。コンピュ−タ−と食欲色欲いい結婚生活のほかな−んもない、うすっぺら。
 つまんないよ−、なんとかしとくれ−。
 そりゃ一には教育の荒廃だ、青春というものが爪っから先もない。
 青春とは何、男と女とその間に流転三界全世界が入るんだ、箇と全体をつなぐ掛け橋、たとい吹けば飛ぶような将棋の駒だって、男一匹人間一匹これっきゃないんだって、浪花節やれってんじゃない、一度っきりの人生そりゃ虫っけらけものじゃない、人間の人生だ。取り返しの利かないやつ。たとい仏教辺もここから発する、ちっぽけな自我の殻破らなけりゃ、そりゃなに云ったってな−んもなりゃせん。


戻る