究極自分はどうか


 仏教は人間の生み出したものだろうが、仏と仏の道は人間の発見したものです。人類が滅び去っても仏の道はあります。

 福祉をあんまりしない、愛が足りないとかいってるのは、だからまったく見当はずれなんです。大法という、自然の摂理といったら、他に観察者がいるんです、そうじゃない観察者抜きの自然そのものです。これは人間だけを区別しないんです。みんな仲良く平和なんてことは二の次三の次、というよりみんな仲良く平和が、結果どうなるか、大法にそむくこと、自然に反すれば袋小路。それゆえに他の諸宗というんです。キリスト教を独善とみなす。人間を頂点とするピラミッドなんてないです。まして人間に似た神さまなんて噴飯ものです。最後の審判じゃない、たった今です、そりゃもの行なえば審判は下ってるんです、行なわずともです。

 そろそろ人間も宗教ということに、平らに目をやる時だと思っています。三つの子どもの目で見りゃいいです、宗教必要悪といったらいいか、いらんものばっかり多すぎる。
 いったい何故に人間だけが宗教か。
 宗教がなにをもたらしたか、功罪ともにあるとしたって、弊害のほうが矢鱈多すぎはしないか。
 それは何故か。

 思考というものは究極自分はどうかということです。
 あっちこっちの知識−知識とはほんらい自ずからのものです、多煩の知識いいようでいて、断じて当たってないんです−ではない、是非を論ずるのに自分一個ありゃ足りるんです、いらんもないらんとそれっきりです。

 政府がカルト防止法案をいくら作ったって、そりゃ嘘っこんの便法にもならんです。
 カルトと他の諸宗いわゆる旧宗教とは、本質的に区別はないんです。目くそ鼻くそです、旧宗教が国家転覆の過激な時代を脱しているといったって、妥協の皮ぬぎゃやっぱりどくろ面です、他みんなだめってしかない。やること巧妙になったというだけ始末に悪い。
 宗教の別は有心か無心かです。もし有心の宗教であればそれは有害です。
 有心−人間の有意によるんです、そりゃ科学だって同じです、もと一神教の申し子です、いくら厳密だろうが、大統一理論も、ついに得たと思ったらひっくりかえって不毛の砂漠、そりゃ古来物はそういうことなんです、これ知ったら科学も十三歳ぐらいにゃなれる。


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