道元禅師空手還郷


道元禅師は十三歳に比叡山に上り、十七歳のころには一切経巻を尽くして、要約するに、
「本来本法性、天然自性心。」
ものみなほんらい仏、手つかずに現れる、ということであった。ではなんにもしなくてもいいか。寝たり起きたりやっていたが、少しもよくない。仏の教えとは何かと、栄西禅師に問う、禅師の答えは、
「三世の諸仏知らず、狸奴白狐かえってこれを知る。」というものであった。仏教について知っている、そいつは狐狸の類さ、仏はな−んにも知らぬというのだ。そりゃその通りで、口を開けば無上迅速だのネハン寂静だのいう人、仏教といううわさ−虎の威を仮って、他をたぶらかすだけの狐狸、仏ほんらい仏を知らず。
だが道元禅師はかなわなかった。一つには説得の不備、一つには御自分も仏教を持ち歩く狐の類であった。
どうしても仏教があって、それから自分、でもこの双頭の蛇は納りつかんのです。どこまで行っても修行の、それらしいお為ごかしをするか、ほんとうに決着をつけるか。
決着をつける、仏教をきわめるという、未だなお仏教というものの延長線上にある。偉い人、とんでもなくありがたい人、道を極めた人を求めに、大宋国へ渡る。
彼が思いを打破する人が見つかるか。
彼が思い、そうです、一人角力をやってるんです、大悟徹底というネタをひっつかんで、なんとしてもどうにかしようとする、いやどうにもなるもんじゃない、そんなやついるもんか、自他ともにどっちも偽やるんです。そのようにして、当るを幸いやっつけて歩く。
外国語でもってまあ達者なこと。
四年してついに諦めて帰ろうとする、天童山の如浄禅師に会う。未だ求める心は失っていなかったんです。これは仏教知識やコネとかっじゃない。ホンモノと知るには欲しいと願う一心だけだ。でないとせっかく出会いながらかなわず、出会ったといって狐狸につく。
「いうてみなさい。」
如浄禅師はいった、総ざらいまくし立てるんです、仏教の知識を総動員すれば、
「それでもってあなたは満足したんですか。」
「しなかったです。」
「では不要のものです、捨てなさい。」
「はい。」
仏教辺を捨てるとほとんど残ってはいなかった、もっとも大事に思うことを捨てる、右腕切ってさしだした慧可大師と同じです、これはとやっているそれを捨てる、すると生まれながらの鼻たれ坊主です。
「食う寝るやりたいもの欲しいという欲望はどうしたらいいんですか。」
「欲望を押さえたいんですか。」
「ある時押さえある時、そうです、忘れています。」
「だったらそれでいいです。」
「いいんでしょうか。」
「欲望にとらわれないことができる、だったらいいじゃないですか。」
「はい。」
どのような質問もついには心のありよう、そのメカニックの問題だ、
「心意識はそりゃ、こっちの自由にゃならんのですよ、どうこうして、たといいいことをもって律しようが、わるいことは避けたろうが、そうするにしたがい、収集がつかない、心意識としての内容じゃないんです、あるときぽっと出る、ほっときゃ消える、その尻尾を押さえてああでもないこうでもないやらんけりゃ、な−んにもないと同じです。」
けだし諸問題これっきりになる、むしろこれを出家というんです、大力量の人にして始めて得るんです。中途半端の人は、いいことしいっていう、仏教周辺事、世間事です、そのあたりを徘徊する、それ取ったら自分なくなる、こわいってわけです。徘徊してもって末は博士か大臣かっていう、うすらみっともないです。
道元禅師はそっくり投げ出す、捨身施虎です、自分なくなる、そうさ(なんにもない)に食われっちまえです。
こわいって、そりゃ死ぬのとまったく同じ。
ついに問法のところ、まったく失せる。
そうして坐っていたんです。
坐っている身心、それを見ているなにがなし、わずかに残っている、それが消え失せる、忘我です。
たまたま隣単の僧の居眠りをとがめて、警策する、ばしっという、三日耳を聾すという、そりゃ指をパチッと鳴らしたろうが、なんでもいいです、これを機縁にはあっと我に返るんです、一念起こる。
すると自分というものがまったくなしにものみなあるんです。
我と有情と悉皆成仏底です。彼岸にわたる、パ−ラミ−タ−向こうへ行っちゃったっきり、向こうへ行きゃこっち岸。
「やったあ。」
っていうんです、そりゃ筆舌に尽くしがたいとこあります、こればっかりは能書きじゃない、自分やってみるっきゃないです。
すっ飛んで行くんです。如浄禅師のもとへ行って、
「身心脱落来。」
身も心も脱落して来ました、とうとうやった、やっつけた得たっていうんです。すると如浄禅師は、
「脱落身心底。」
脱落せる身心底、そりゃ得た得ないじゃない、もとっからこうなんだよ、というんです。
ここに於てまったく納まるんです、如来来たる如しとして、生まれながらにこうあるんです、本来本法性、天然自性心です、でもこれに気がつく必要がある、なほ証せざるは現れずです。気がつく再発見する、それが驚天動地なんです。まあたいていの人天下取ったってやるんです、見るもの聞くもの掌、仏教経典八万四千巻み−んな自分に書いてある、そりゃ当たり前だってこと知らない、自分が先でお経があとです。天狗になるんです、禅天魔といわれるゆえんです。するともう一苦労せにゃならんです。空手還郷にならんです。今度は悟りを握り締める。如浄禅師はこれを除き、さすがに道元禅師は覚るんです。なにものかを得たか、もとっからあるものをなんで得なけりゃならん、じゃなんの為に万里の波頭を超えてたって、そんなこた知らんぞ、故郷に帰るのになんで空手じゃいけないんだ、アッハッハ船に満載のお経が欲しいってかい。
「眼横鼻直にして、他に瞞ぜられず。」
目は横鼻はたてって他な−んもない、しかもだれ出たってたぶらかされない、これ仏教の真髄です、三世の諸仏知らずです、狸奴白虎の類かえって是を知る、他の諸宗みなこれ、そうですよ、何か知るにしたがい議論の種、教義を立てるにしたがいいさかいです。
ちらっともあったらおしまい、手つかずのただの人。
ほんとにただの人なんです。
ただの人になるのに、なんでこんなに大苦労せにゃならぬか、今の和尚トピみたい、じゃなんでもいいってってやらせとくと、わんさか収拾がつかんです、どうしてもいったんキレイさっぱりやらんきゃだめなんです。まあいい証拠品ですか、ばかったいきりだけどもさ。
ア−ケイックスマイルの古代人、洞窟壁画のクロマニオン、巨大ネグロイドとか火炎式土器をこさえた人も、単純で限りなくただの人に近かった。
だからなつかしいんです。感動であり、見れども飽かぬ第二の自然、いいや人間もと手つかずの自然、如来です。正師につくこと、すでについているのに、なんてえ無駄っこと。
そうむずかしいこっちゃないです、今の世こそもっとも大切と思うのに。人間のこれ根本です。



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