後継者
参禅される方に、自他ともにない本来のありようを示す、理屈として単純だし、座禅の方法として、とっかかりひっかかりするのを外してやると、次第坐るのが面白くなって、ひまさえあれば坐っていたりします、するとあるとき忘我、忘我まで行かなくっても、自他の垣根が外れて、ものみなと一つっことして、いいなあ生まれて始めてとかやっています。
それでいいはずなんです。
ところが数年して会ってみると、ちっともよくなかったりします。世間しゃば流に押し流されるのか、悟りという、本来ある通りの他になんにもないんだよっていうのが、どっかへ行ってしまう、歯がゆいんですよ、これをどう説明していいのか、悟りとしては、私よりきっぱりとやっている人も二三います。にもかかわらず、
「このばかったれが、なんだと思ってやがる。」
とか、どなっちまったりするんです。
いいですか、悟りのあるなしじゃないんです、悟りなければ問題にならぬにしたって、もと自分という、これっこっきりのものでしょう、もって生まれた如来という、仏という他にな−んもいらんのです。
つまりそれができないんですよ。
必ず悟りあり、禅あり仏教あり、坊主の地位あり、ぜにかねあり、なんだかんだなくっちゃ、生きて行けないって気になるんです。
ちらっともそれあったら、収まり切れないんです。
いうなら、
「わがこと終わった。」
という実感です、他どういったってしょうがない、どう説きようもないんです、
「終わった人。」
をどうしても作りたいんです。でなきゃ自由の分がない、仏教のくびき、あるいは世の中いいわるい判断のとりこになる、だったら面白くないんです、眼横鼻直にして他に瞞ぜられずと、道元禅師の語にあります、そういう人が欲しいんです。
人間の資質に関係するものかどうか、とにかく世の中と自分とを卒業しちまう、それっこっきりです。
悟りという自他の垣根が外れるのに、平均三カ月(平均なんてことないんですが)というのは、たいていそんなもんですよ。
いらんことしなけりゃまっしぐらです。
でもわたしの願いは、原初の行を守るという、ほんとうにそれっこっきりの人間です。
かえってわたしを証明してくれる人です、
「おまえなんかいらん。」
といってくれる弟子です。
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