個性・没個性
個性と没個性って、それ面白いんですよ、個性的であるほど没個性、無思想無性格がもっとも正解っていう、没個性であればあるほど、個性的、そうねえ、どこまで行ってもそういうことのようです。コンピュ−タ−的没個性とは嘘〜そういう作り物です、なんの役にも立たないんです。
問いに対して問いが答えるとは、仏教の問答はすべてそうなんです。問所即ち答所といいます、
「この世に何の楽しみかある。」
「松に風峰には雲。」
どうです、なんの楽しみかある=答えになっていませんか。
「如何なるか是れ仏法の大義。」
知らないこと−知っていること、これどう思います、知識ってなんでしょう、おしゃべりの種の他に、生活便宜の他に、知的な楽しみ−趣味という他に、医学とか科学〜人類の獲得した膨大な知識って、いったいなんです。花に、
「あなたはだあれ。」
と聞いてごらんなさい。
「知らない。」
というんです、帝云く、朕に対する者は誰そ。磨云く、不識。達磨さんは、
「知らない。」
というんです。これ仏教の根幹。
いいですか、壁に頭をぶっつけても(いえわたしも色んなことやりましたよ。)自分はなくならないんです、まったく別の方法があります。
坐禅はそのもっとも端的な方法です。けっかふざして坐り、去来する自分をそのままにして置く、手を付けない工夫です、すると必ず自分を忘れる、忘我ということが起こります、多少時間はかかっても、自分という「たとい深い哀しみ」の原因が失せるんです、するとぴったりうまく行くんです、生まれついての没個性−強力個性、つまり一OO%自分なんです。
これ現実です、空想してもさっぱり役に立たんです。
モ−ツアルトシェ−クスピア芭蕉とか没個性−個性的の代表です。代表の上の代表モ−ツアルトだって、あなたの心にはなんの影響も与えない、去来するだけってこと知って下さい。仏教−坐禅−解脱とはそういうことです、心はなんの傷もつかぬ=救いということです。
知らない−なんにもない−傷のつきようがない、乃至はモ−ツアルトだろうが、ビッグバンだろうが入る−問所即ち答所−個性も没個性もないって、こういう関係。
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