木の葉


 風も揺れず木の葉も揺れず、汝が心揺れるなり、というのなんかあると思うんでしょう、そうではないんです、木の葉揺れず、こっちの体が揺れる。
 自分という垣根が外れてしまうんです、ほとんど心も失せて−見ている自分がない−単なる現象です。
 テレビを見ている、テレビが自分で、そっくりこっちを見ているような感じ、形影あい見る如しというんですが、大悟徹底といわなくとも、無眼耳鼻舌身意といわれる、これのありようは見て取れるんです。
 
 で、それがなんだという、自分にとって、自分の人生観にとってなにほどのこと。そうです、こういうふうに再三再四思うにいいです、いったい何−はあてわからん。
でもってほんとうに身心失せる時、
「そうか。」
っていうんです。通身納得する、絵に描いた餅ではない、食べて大満足です。標準、つまり物差しっていうのはこれしかありません、たとい大見性も、人がどんなこといおうが、自分納得しなければ二束三文です。

 悟りという、見性という、一回やったらもう一回やれといわれる、もう何回やったって、悟りがあり見性あれば、そりゃそれっきりのものです。信といい不信といい信いらず不信なしといいます。そうじゃないんでしょう、ものみな見るとおり聞くとおりある、あるとき信じあるとき信じない、でもって身心あげてものみなと 永しなえにこうあるんです。
 どうですか、他にないんでしょう。
 坐って忘我の工夫です、もと行なわれつくしてるところに帰りつく、もとこうあるのに、どういうわけか泳ぎ出している、その分なにかとうまく行かない、帰家穏坐、只管打坐手つかずの工夫です。
我と我が一身−一心あれば他になんにもいらないんです。


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